坂本龍馬と大政奉還 果たされなかった無血革命

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大政奉還の実現

これらの提案によって、慶喜はついに大政奉還の実行を決意し、10月14日に朝廷に申し入れをしました。

やがて朝廷がこれを受け入れたことで、ついに徳川氏は日本の統治権を手放し、明治天皇の元で築かれる新政府に、一勢力として参画することになります。

慶喜の決断を聞いた龍馬は、「よく断じ(たま)えるものかな。よく断じ給えるものかな(よく決断なさったものだ)」と二度も言って深く感嘆し、「慶喜公のためなら自分の命を捧げても惜しくはない」とまで述べました。

いかに幕府が弱体化して苦境にあったとは言え、最高権力者の地位にあるものが、公益のために自らそれを手放すのは前代未聞の出来事であり、龍馬は慶喜の見識と決断力に、深く感銘を受けたのでしょう。

一方で龍馬は、大政奉還が実現しても、それだけではさほどに現状が変わらないことも認識していました。

依然として、徳川氏が日本で最大の実力を備えていることに変わりはないからです。

このため、徳川氏から実権を奪う目的で、江戸にある銀座(貨幣の鋳造所)を廃止し、これを京都に移して新政府の管理下に置くべきだとも述べています。

通貨の発行権という大権を取り上げることで、徳川氏の経済的な実力を失わせる策を考えていたわけで、このあたりは経済通の龍馬らしい発想だと言えます。

龍馬はこのように、徳川氏の力を弱らせ、新政府に実権を移行していく方策も検討していたのでした。

龍馬はあくまで日本のために動いていたのであって、徳川氏のために動いていたのではありません。

慶喜への称賛は、あくまで慶喜個人に対するもので、徳川氏の力が削減されていかなければならないことに、変わりはなかったのです。

暗殺と無血革命の頓挫

しかし龍馬は大政奉還の実現からわずか1ヶ月後、11月15日に暗殺されてしまいます。
これは徳川氏の警察組織である見廻組(みまわりぐみ)の仕業でしたが、当時は新選組の手によるものだと考えられていました。

新選組が疑われたのは、見廻組よりも知名度が高く、目立つ存在だったからでしょう。

いずれにしても、徳川氏による暗殺であることに変わりはなく、このため薩摩藩の大久保利通(としみち)は、「これで徳川は自滅した」という見解を述べています。

大久保は、龍馬がいなくなってしまえば、もはや徳川氏を新政府に取り込む形での政体改革の動きは頓挫するしかない、と見ていたのでしょう。

龍馬は幕府にも薩長にも働きかけることができる希有な立場を獲得していましたが、その龍馬が失われれば、対立する両陣営の間を取り持つことのできる人間がいなくなってしまうからです。

そして大久保が予見した通り、以後は西郷と大久保が主導する武力倒幕の路線が主流になっていきました。

徳川氏の手先が龍馬を狙ったのは、「龍馬は薩摩藩と長州藩の間で活動しており、幕府に敵対する活動を行う浪士だ」と見なされていたからです。

実際のところ、龍馬は倒幕も肯定する立場を取っていましたので、そう認識されてもおかしくはありません。

また、龍馬は裏側で立ち回っていましたので、徳川氏を新しい時代に適応させる形で存続させようとしている人物だと知る者が少なかったのも、影響したでしょう。

慶喜にしても、龍馬の存在を知ったのは明治以後になってからでした。

こうした事情により、徳川氏は、それと知らずに自らを窮地に陥れてしまったのです。

王政復古の大号令と武力倒幕

そして12月8日には、大久保と岩倉具視(ともみ)の工作によって、朝廷から「王政復古の大号令」が出され、新しい権力体制が公示されます。

岩倉具視は公卿で、大久保の同志として活動していた人物です。

この号令では、龍馬が提案した関白と内大臣の地位は消去されており、慶喜の排斥運動が開始されました。

大久保や西郷は徳川氏をもっと性急に追い詰め、打倒することで政体の変革を成し遂げようと考えていたのです。

これには大政奉還を主導した土佐藩の山内容堂や後藤たちが反対しますが、岩倉や西郷、大久保に押し切られ、徳川氏の新政府からの排除が決定されます。

この結果、慶喜は官位と領地の大部分を剥奪されることになり、これに反発した旧幕府軍と新政府軍の間で「鳥羽・伏見の戦い」が行われました。

これに旧幕府軍が敗れたことで、徳川氏は武力によって打倒されることが決定的になります。

やがて関東や東北などで新政府軍と旧幕府軍・東北諸藩との戦い、すなわち「戊辰(ぼしん)戦争」という内戦が発生しました。

そして会津(福島県)や長岡(新潟県)など、各地で多くの流血を招くことになり、龍馬の構想とは異なる方向に歴史が進行していきます。

それでも、慶喜が新政府への恭順姿勢を徹底し、勝と西郷の和平交渉が成立したことで、江戸城が戦闘をせずに開城され、内戦が激化せずにすみました。

大政奉還を提唱した大久保忠寛もまた、この時に新政府と徳川氏の抗争が、穏便に収まるようにと尽力しています。

この結果、比較的穏健な形で政権の移譲が実現されたのです。

これは大政奉還が既に成されていたことにより、そのような結果が導かれたのだと考えられます。

事前に政権を放棄していなければ、慶喜もそうやすやすと新政府に屈する道は選べなかったでしょう。

龍馬の活動は完全に無血とまではいかなかったものの、流血の量を減らすのには寄与したのだということになります。

その後の慶喜

その後、慶喜は静岡で隠居生活を送っていましたが、1902年に公爵という、最高位の爵位を明治政府から与えられています。

そして貴族院議員に就任し、再び政治に携わるようになりました。

この貴族院とは、龍馬が提唱した上院のことです。

35年という長い歳月をへて、龍馬が感銘を受けた慶喜の功績が、ようやく世間にも認知されたのでした。