西郷隆盛は1858年に、月照という僧と一緒に薩摩沖の海に飛び込み、自害を図りました。
これは両者がともに、京で政治活動を行っていたことに大元の原因があります。
西郷は薩摩藩の下級藩士の出身でしたが、高い志を抱いており、ペリーの来航以後、諸外国が軍艦を率いて押し寄せ、圧迫を加えてくる情勢下で、危機を迎えた日本のためになる仕事をしたいと考えていました。
【西郷隆盛の肖像】
そして上層部に対し、藩政への意見書を送るなどしているうちに、やがて藩主の島津斉彬に見いだされ、取り立てを受けるようになります。
当時、斉彬は幕府や朝廷との間に強固な関係を築き、日本の政情に影響を及ぼそうとしていました。
この頃の日本では、幕府と朝廷に政治権力が二分されていく流れが生じており、政情を掌握するためには、どちらとも関係を築く必要があったのです。
そんな斉彬の政治目的は、日本の近代化を促進して国力を充実させ、諸外国から圧迫されない状況を作り出すことでした。
そのために薩摩藩で「集成館事業」という近代化政策を推進しています。
これによって武器や火薬、機械などを生産する工場群を建設し、薩摩藩の軍事的・経済的な実力を高めることに成功しました。
斉彬はこの政策を日本中に広めて変革を促すため、政治の実権を握る幕府と、危機的な状況下において衆望を集めつつある朝廷の双方に対し、影響力を強めようとします。
斉彬はやがて、西郷を政治工作を行うための腹心として用いるようになり、これがきっかけとなって、西郷は人々にその存在を知られるようになっていきました。
そしてその過程で、月照とも知り合うことになります。
【西郷を取り立てた島津斉彬の肖像】
篤姫のために、西郷は近衛家に使いをする
当時の将軍は13代目の徳川家定という人物でしたが、「島津家から家定の妻を迎えたい」という話が、幕府から斉彬に持ち込まれていました。
家定は病弱な人物で、なかなか子どもができず、後継ぎをもうけることができないでいました。
一方、かつて11代将軍・徳川家斉の時代に、島津家の姫が輿入れし、その結果として多くの子が生まれ、家系が栄えたという吉例がありました。
これにあやかろうとして、再び島津家から家定のために妻を迎えたい、という話が持ち上がったのです。
これを実現すれば、斉彬は将軍の養父の立場につくことになりますし、島津家の姫が将軍の妻として大奥にいれば、幕府に影響を及ぼしやすくなります。
このため、斉彬は一族の中から、賢明であるとの評判がある篤姫を選び、将軍に嫁がせることにしました。
しかし、篤姫は島津の分家の出身であるため身分が足りず、「将軍の正室にはふさわしくない」との声が幕府の内外から出てきます。
これを受け、斉彬は摂関家の近衛家に依頼して、篤姫を養女として迎えてもらうことにしました。
近衛家は関白や摂政といった、朝廷の最高位につける家柄で、藤原氏の血を引く一族です。
その養女の資格を得れば、篤姫が将軍の正室になっても、どこからも批判される恐れがなくなるのでした。
斉彬はこの要望を伝えるための使者に西郷を抜擢し、京に派遣します。
京での活動
西郷は1855年に京に向かい、初めて近衛家との接触を持ちました。
ほんの2年前までは、薩摩の田舎を巡回する地役人の仕事をしていましたので、西郷からすれば、目もくらむような環境の変化だったと言えます。
近衛家と島津家には、鎌倉時代からの古いつながりがあり、島津家の姫が何人も近衛家に嫁いでいるほど、深い血縁関係にありました。
これは近衛家の荘園が薩摩にあったためで、600年にも渡って両家の間には交流が持たれていたのです。
このため、特別に難しい交渉だったわけではないのですが、初めて大きな仕事を任されたことで、西郷は相当な緊張を強いられました。
西郷はまず初めに、近衛家で老女という地位にある村岡とつながりを持ちます。
(老女は老いた女性ではなく、侍女の筆頭の地位にあった女性のことをいいます。)
そして近衛家の当主・忠煕に斉彬の意向を伝えてもらい、篤姫を養女にするための働きかけを行いました。
当時は諸大名の家来が公卿と直接関わりを持つことが禁じられていましたので、公卿に仕える者を通して交渉をする必要があったのです。
そうして日々、西郷は近衛家と関わりを持つうちに、月照とも出会うことになります。
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