西郷隆盛と月照はどうして薩摩沖に入水したのか?

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月照の身にも危機が迫る

井伊は自分に従う幕閣の間部まなべ詮勝あきかつを京に送り込み、尊王派の活動家たちを捕らえさせ始めます。

やがてその追求の手は月照にも及びました。

月照は安政の大獄が始まる以前、朝早くから夜遅くまで、近衛家や青蓮院宮家、そして志士たちの間を駆け回り、積極的に政治工作に関与していました。

それに加え、近衛家や青蓮院家に、朝敵や仏敵を調伏ちょうぶくするための、真言宗の秘法を伝える活動も行っています。

ここで言う朝敵とは、「日本に押し寄せてくる諸外国のことだ」と月照は説明していたのですが、諸外国は朝廷を攻撃していたわけではありませんので、人々は不審に感じていました。

それは幕府にしても同じで、「月照は朝廷の要人たちに幕府を敵視させ、朝敵に指定させようともくろんでいるのではないか」と疑われたのです。

これが直接の契機となって、月照は幕府の追求を受けることになりました。

それを知った近衛忠煕は月照に「しばらく遠くに逃れて身を潜ませ、機が訪れるのを待つがよい」と告げ、ひとまず鍵直かぎなおという宿に身を隠させました。

そして西郷を呼んで、薩摩藩で月照を匿って欲しいと依頼します。

逃亡劇の始まり

これを受け、西郷は同じ薩摩藩士の海江田信義、ならびに薩摩浪士の北条右門うもんとともに月照の隠れ家を訪れます。

そして月照を駕籠に乗せ、追求を逃れるため伏見の方へと脱出しました。

この時に月照の身の回りの世話をしていた、従僕の重蔵も同行することになります。

そして5人は柳屋という茶屋に立ち寄るのですが、そこには幕府の捕吏が十名ほどもいて、休息を取っていました。

この時に西郷たちは堂々とした態度でふるまい、素知らぬ顔で茶を飲むことで、危ないところを切り抜けたと言われています。

西郷たちは京に戻るも、追求の厳しさを知る

その後、西郷たちは月照を大坂まで連れて行き、薩摩藩の屋敷に匿いました。そして西郷と海江田は、京の様子を探るためにいったん引き返します。

しかし、西郷の定宿の主人が幕府に逮捕されて尋問を受け、月照の弟・信海上人も捕縛されていると知り、とても京に留まれる情勢ではないと悟ります。

それ以外にも、一緒に活動をしていた小林民部や鵜飼吉左衛門など、関わりのあった志士たちはみな捕縛されており、ほぼ一網打尽とも言える状況になっていたのです。

やがて、この時に西郷たちが泊まっていた宿の付近にも幕府の密偵が現れるようになり、宿の者からそれを教えられた西郷たちは、慌てて大坂に引き返しました。

そして月照に状況を伝え、「やはり薩摩まで逃げるしかない」と結論を出します。

この時に西郷は、「今は逃げるが、月照さんを薩摩に送り届けたら、私は僧の姿にでもなって京に戻る」と言うのですが、これを受けて月照は「西郷さんが僧の姿になったら、さぞ弁慶そっくりになるでしょうな」と言い、みなで大笑いした、という話が残っています。

西郷も弁慶も大男として知られていますので、頭をそれば、かなり似た印象の外見になったかもしれません。

下関を経由して九州に入る

西郷たちは船を雇って瀬戸内海を航行し、下関までたどり着きます。

そしてそこで、白石正一郎という豪商の屋敷に泊めてもらいました。白石は商人でしたが、尊王の志が厚く、西郷たちの支援者にもなっていたのです。

一泊してから北九州の小倉に渡ると、そこで薩摩藩の老公・島津斉興なりおき(斉彬の父)が筑前(福岡県)にいて、薩摩に帰国する途中だという情報が入ります。

このため、西郷は藩の実権を握った斉興に、月照の受け入れを認めてもらうため、一足先に出発することにしました。

西郷は「先に薩摩に戻り、月照さんが受け入れられるよう、藩の上層部を説得するので、ここで待っていて欲しい」と告げます。

このため、残る4人は博多にある北条右門の家に移動し、そこでしばらく滞在することにします。

北条右門は元薩摩藩士で、この頃には博多に住み、西郷たちと一緒に尊王活動に参加していたのです。

そして北条家にたどり着くと、海江田もまた西郷の後を追い、薩摩の状況を確認するために旅立つことになりました。

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