西郷隆盛と月照はどうして薩摩沖に入水したのか?

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平野国臣と合流し、薩摩を目指す

こうして月照と重蔵が二人で博多に残されることになるのですが、北条右門は友人の平野国臣を呼び、月照の護衛を依頼します。

平野は福岡藩士で、志士活動も行っており、西郷とも知り合いでした。

これで少しは心強くはなったものの、月照は果たしてこの先どうなるのかと気がかりで、鬱々として日々を過ごします。

このため、従僕の重蔵は、自分の故郷・丹波たんば(京都北部)の風景や暮らしについて語り、月照の心を慰めようとしました。

そうして日々を過ごしている内に、やがて下関の白石正一郎の使いが博多を訪れます。

その使者は、「既に下関にまで幕府の役人の追求が迫っており、白石も呼び出されて尋問を受けている」と伝えました。

これを受け、博多も安全ではないと知った月照と重蔵、平野国臣は宿を出て、西郷たちの帰還を待たずに薩摩を目指すことにします。

西郷の苦境

一方、月照の受け入れのために薩摩に戻っていた西郷は、苦境の中にありました。

既に触れていますが、斉彬が亡き後、薩摩藩の実権はその父・島津斉興が掌握していました。

斉興は斉彬とは違い、日本を改革する活動になど興味はなく、尊王派の活動にも理解がありません。

このため、西郷が月照の保護を訴えても受け入れられず、近衛忠煕や月照との約束を果たすことができなかったのです。

それでもあきらめずに各所に訴えますが、効果は上がらず、いたずらに日が過ぎていくうちに、月照たちは薩摩に向かって移動を開始したのでした。

月照たちは旅に難儀する

月照たちは薩摩に向かったものの、途中で幕府の役人に発見される恐れもあったため、山伏に変装して世間の目をごまかし、薩摩の関所を突破することにします。

月照は鐸水たくすい、平野は雲海、そして重蔵は藤次郎と名を変え、それぞれに山伏に変装してから、船頭を雇って小舟で薩摩を目指すことにしました。

折しも11月のことであり、海上は寒く、食糧も乏しかったので、平野が携帯していたニンジンの砂糖漬けをわけあったりしながら、かろうじて天草にまでたどり着きます。

そこでは米がなかったので、やむなく芋や魚を買い求めると、再び出航して肥後と薩摩の国境にまで到着します。

そして関所では月照の知人で、山伏の日高存龍院うんりょういんを訪ねてきた、と来訪の理由を述べ、通過しようとしました。

しかし、日高は折あしく、しばらく前に上京してしまっており、すれ違いとなってしまいます。

このために関所の役人に怪しまれ、問い合わせるから国境に留まるようにと言われました。

このために月照たちは引き下がり、再び船を雇い、船番所を通って薩摩に入ることにします。

幸い、こちらでは詮議がさほど厳しくなく、通過が許されました。

そして陸路を6日ほど歩き、ようやく鹿児島の城下へと到着します。

西郷を訪ねるも、薩摩から出るように言われる

そして一行は西郷の家を訪ねるのですが、「藩命によって薩摩を出て、日向ひゅうが(宮城県)に行ってもらわなければならない」というのが、西郷からの無情な答えでした。

結局、薩摩藩は月照の身柄の保護を拒否したままだったのです。

月照を薩摩から追い出せばやがて幕府に捕らわれ、厳しい処分を受けるのは明らかでした。

一方で西郷は薩摩藩士の身分を持っていますので、藩は幕府にその身柄を引き渡す気はありませんでした。

このため、西郷はその気になれば、自分の身の安全だけは確保できる状況にあったのです。

しかし西郷は自分の身だけが助かればそれでいいと思うような、薄情な人間ではありませんでした。

【次のページに続く▼】