船で薩摩を出発する
西郷は月照と重蔵、そして平野たちとともに、船に乗って日向に向かうことになります。
乗船したのは船頭が3人ほどの、さほど大きくはない船でした。
この時に西郷は酒と肴を船に持ち込んでおり、船上で酒宴が開かれます。
月照はお酒が苦手だったのですが、この時は珍しく3、4盃も続けて酒を飲んでおり、重蔵に心配されました。
そして船がある程度進んだところで、月照は西郷を誘って船縁に立ち、作っておいた辞世の句を渡します。
そこには「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」と書かれており、幕府に拷問を受けて白状を強いられるよりも、自ら海に飛び込んで死を選ぶ覚悟が示されていました。
それを読んだ西郷は、月照にうなずいて見せます。
感情が激しく、情の深い西郷は、これまで一緒に活動をしてきた月照がひとりで死ぬのを見過ごすことができず、けれど救うこともできないため、ともに死ぬ覚悟を固めたのでした。
やがて船の帆が風をはらみ、快調に波を切って航海を続ける中、月照と西郷は舳先に立つと、身を寄せ合って、ためらいもなく海に飛び込みました。
これに船頭たちが気がつき、大騒ぎとなります。
船は勢いがついていて、急には戻れませんので、ひとまず西郷たちが沈んでいったあたりに浮き板を投げて目印にしました。
そしてどうにか船を戻して捜索しはじめると、しばらくしてふたりが海面に浮かんで来ます。
船頭たちが海に飛び込み、ふたりを船の上に引き上げ、水を吐かせて蘇生しようとしました。
しかしその時には、すでに月照は事切れていました。
一方、西郷はかろうじて息を吹き返し、陸上に運ばれ、そこで手当を受けます。
この時に西郷の友人である大久保一蔵(後の利通)たちが駆けつけ、西郷が生存したことを喜びました。
そして、医者が呼ばれて二人を診たのですが、そこで月照の死亡が確認されます。
月照は南林寺に葬られ、西郷は奄美大島に逃れる
薩摩藩ではこの知らせを受け、月照を西郷家の菩提寺である南林寺に葬ることにしました。
そして西郷も死んだことにしています。
幕府の役人が薩摩を訪れた際には、ふたりの墓を見せてその追求をかわしました。
やがて目を覚ました西郷は、介助をしてくれる吉井幸介という友人に、「懐に入っている紙を出してくれ」と告げます。
するとそこには、月照の記した辞世の句が、読める状態で残されていましたので、これが現代にも伝わることになりました。
その後、3ヶ月の療養をへて、ようやく西郷は回復すると、奄美大島に潜伏し、そこでほとぼりを冷ますことになります。
藩とっては西郷も厄介者になっていましたので、幕府の目が届かない場所に送り出すことにしたのです。
こうして西郷はひとり生き延び、南の島で再起の時を待つことになりました。
主君と、そして同志を失い、自分だけが生き延びてしまったことで、西郷の心は相当に傷ついていたと思われます。
西郷は大島に逃れた後で、京で一緒に活動をしていた他の志士たちが、次々と処刑されていったことを知らされます。
西郷はそのたびにしばらく食を断ち、先に死んでいった同志たちの冥福を祈りました。
月照の覚悟
月照は薩摩に入る前から、すでに平野に対して死を覚悟していることを告げていました。
もしも自分が幕府に捕まって拷問を受け、白状をしてしまうと、近衛家や青蓮院宮家に迷惑がかかることになると、そのことを危惧していたのです。
このことから、月照が朝廷の機密に関与していたことがうかがえ、それゆえに幕府も月照を追跡したのでしょう。
この平野の話から、月照は薩摩藩に受け入れられず、それに絶望して自害をしたのではなく、それ以前から身を処す覚悟を持っていたことがわかります。
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