橋本左内は幕末に福井藩の医者の子として生まれ、適塾で蘭学(オランダ由来の西洋学問)を習得した人物です。
若年の頃より優れた知性を備えており、世界情勢に通じ、幕末において日本の取るべき道を示した思想家としても活動しています。
やがてその才能を認められ、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の抜擢を受けて藩政改革に参与し、国事にも携わるようになります。
そして同志となった西郷隆盛とともに、英明で知られる一橋慶喜を将軍に擁立する運動を推進し、幕閣や朝廷にもその存在を知られるようになりました。
しかし、井伊直弼が強行した安政の大獄によって処刑され、わずか26才で惜しくも世を去っています。
この文章では、そんな左内の生涯について書いてみます。
【橋本左内の肖像画(島田墨仙作)】
福井藩の医師の子として生まれる
左内は1834年に、福井藩に仕える医師・橋本長綱の長男として誕生しました。
幼い頃より向学心が強く、将来は学問でたいした進歩を得られないのではないかと憂い、寝床で涙を流すほどだった、と自ら述べています。
15才の時に、こうした記述を含む「啓発録」という書を記しており、少年が学問を修めるのに抱くべき心構えについて述べ、自身の勉学の励みとするなど、早熟な傾向を持っていました。
この書物の中で、左内は「学とは優れた人物の立派な行いをならい、自らもそれを実行していくことをいう」と述べており、先賢に学んで自分を高めていこうとする、立派な志を持っていたことがうかがえます。
左内はこのように、生まれついて聡明な人となりを備えていましたが、学問に秀でているからといっておごり高ぶることはなく、その性格は謙虚かつ温和であり、一度も人と争ったことがなかった、と言われています。
適塾に入門する
左内は故郷から離れることを強く希望しており、「このような片田舎で学んでいても、井の中の蛙であるに過ぎない。なんとかして中央に遊学し、天下の大学者に師事し、知識を開いてもらいたい」と発言したことがありました。
やがてその希望が認められ、1849年に大坂の適塾に入門し、緒方洪庵に師事して蘭学を学ぶことになります。
この適塾では、後に日本の陸軍を創始する大村益次郎が塾頭を務めており、単なる医学の学問所ではなく、当時における最先端かつ、第一級の教育機関でした。
医師の子として、医学を修めるために適塾に入った左内でしたが、この時期から既に単なる医師として生きるつもりはなかったようです。
左内は「医者には小医、中医、大医がある。小医は病気を治し、中医はそれを教える。しかし大医は天下国家を治す」と語っています。
その言葉の通り、左内は日本の行く末について思いをはせ、世界情勢に目を向け、日本の社会構造の変革についても構想を練るなどして、己の知性を磨いていきました。
適塾には医学の他に、世界の地理や歴史、化学、兵学に関する書物も用意されており、それらを習得することで、「天下国家を治す」ための具体的な手段についての見識を得ていったのです。
緒方洪庵から賞賛される
左内は適塾で学んでいた際に、塾に所蔵されていたオランダ語の原典をすべて読破し、その筆写の誤りを指摘できるほどまでに、学力を向上させました。
適塾の学生たちには放埒な傾向がありましたが、左内はそういった風潮に染まることなく、一心に学問に励んでいます。
そんな左内の様子を見て、緒方洪庵は「いずれわが塾名を高めるのは左内であろう」と賞賛しており、やがては天下に雄飛して、英雄として活躍するだろう、とまで期待を寄せました。
こうして左内は多方面に渡って知識を深めていきますが、1852年、18才の時に父が病に倒れてしまい、家督を継ぐために、国元に戻ることになります。
藩医になるも、江戸への遊学を希望する
左内は福井に戻ると、父の後を継いで藩医に就任します。
しかし、左内が希望するのは天下国家のために活動することであり、福井で医師として勤めることではありませんでした。
このため、左内が江戸への遊学を希望する旨を伝えると、やがて藩から認められ、1854年にはじめて江戸に出ることになりました。
この年はちょうど、前年に浦賀沖に来航したペリーが、江戸幕府への開国要求の返事を受け取りに来る年であり、江戸は外国勢力への対応をどうするべきか、という問題で沸き立ち、人材が集まっていました。
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