橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

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左内の優れた国際感覚

もしも左内が構想したとおりに、ロシアやアメリカとの親交を優先していたならば、明治以降に日本がたどった道も、現代の情勢も、ずいぶんと変わったものとなっていたでしょう。

左内が述べた通り、ロシアもアメリカも日本の隣国であり、彼らとの同盟を推進するのは、地政学的に考えて、理にかなった話です。

しかし左内亡き後は、これほどの大構想を抱いて日本の外交を主導できる人物はおらず、実現していません。

結局のところ、日本はロシアとは同盟を結びませんでしたが、イギリスとロシアとの間で日本が板挟みになる、という見立ては実に的確であり、日露戦争が発生する数十年前から既に事態を予測していたのは、驚くべき卓見であったと言えます。

左内は当時の日本人の中では、隔絶した見識の持ち主でした。

多くの人々が左内を賞賛したのは、当然のことであったと言えます。

幕府の役人や、閣僚からも高い評価を得る

左内は幕府の役人や閣僚たちにも会い、上記のような見解を述べた上で、このような状況であるからこそ、より年長で、優れた才能を備えた一橋慶喜こそが将軍にふさわしい、と説いてまわりました。

幕府の名吏として知られた川路聖謨(かわじ としあきら)は、左内と話した後で、「橋本左内と会ったが、その言論の行き届いたところは、我が半身を切り取られるかと思ったほどだった。これまで多くの人物と会ってきたが、彼ほどの人物には会ったことはない」とまで賞賛しています。

やがて左内の存在は、老中の間部詮勝にも知られるようになり、京で西郷とともに行った公家たちへの工作も進んでいきました。

そして主君の春嶽が幕閣に働きかけを行ったことも影響し、幕府の内部でも一橋慶喜を推す声が高まっていきます。

井伊直弼と南紀派の手によって状況が変わる

しかしながら、徳川慶福を推す井伊直弼(なおすけ)や、資金力が豊富な紀州藩の買収工作によって多くの人々が抱き込まれ、状況が覆されていきます。

そして最終的には、大老という幕府の最高位に井伊直弼が任命され、その権限をもって徳川慶福を14代将軍に据えることが決定され、左内たちはこの政争に敗れました。

この後も両派の対立は続き、その影響によって左内の運命も暗転していくことになります。

幕府と朝廷・水戸藩の対立

1858年になると、幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結し、横浜や兵庫など、いくつかの港を開港して交易を開始することを約束します。

しかし朝廷の勅許を得ずに、幕府が独断で締結してしまったために、朝廷と尊王派の大名、そして志士たちから、激しく反発を受けることになりました。

この事態を受け、松平春嶽や、水戸藩主の徳川斉昭らは江戸城に不意に登城し、井伊直弼を糾弾します。

この時に、井伊直弼は春嶽らに謝罪し、頭を下げますが、彼らが江戸城から去った後、規則を持ち出して逆に糾弾してきます。

大名の江戸城への登城は、予め決められた日以外にはしてはならないことになっていたのですが、春嶽らはこの規則を破っていたため、これを口実にして責め立てられ、引退と謹慎を強制されてしまいました。

この措置によって、幕府と井伊直弼への反発はますます高まっていき、志士たちは朝廷から勅命を受け取ることで、対抗しようと考えます。

戊午の密勅

こうして行われた朝廷への工作の結果、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれる勅命が、水戸藩に下されました。

これは、水戸藩が中心となって、幕府の非を問い、攘夷(外国人の排斥)を行うための改革を促すよう、日本全国の藩に呼びかけよ、という内容でした。

これが実施されてしまうと、幕府は権威を失うことになるため、井伊直弼は水戸藩と戊午の密勅の降下に関わった者たちへの大弾圧を開始します。

水戸藩を主導する徳川斉昭は永蟄居とされて政界からの完全な引退を強いられ、公家や志士、大名とその家臣など、広範囲に弾圧の手は広がっていきました。

この時に、将軍継嗣問題に深く関わり、井伊直弼と対立する立場にあった左内もまた捕縛の対象とされ、江戸に召喚されて幕府の役人から追及を受けることになります。

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