橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

スポンサーリンク

堂々と活動の趣旨を述べる

本来、将軍の後継者問題について、松平春嶽や左内が関わるのは越権行為であり、これを行っていたことを認めると、罪を得ることになります。

しかし左内はその行動が主君の知るところだったのか、と幕府の役人から問われると、堂々と次のように答えました。

「これは国事であって私事ではありません。ですから明言いたします。年長で賢い者(一橋慶喜)を将軍に立てようとするのは、国家に利があります。主君(松平春嶽)は私にこれを命じ、私は力を尽くして当たりました。私事で成そうとしたのではありません」と、主君の春嶽と、自身の行動は公のためのものであったことを明らかにしています。

これによって左内も春嶽も、罪を得ることが確実になりました。

これは春嶽に対して不忠と言える行為でもありますが、主君の意図に大義があったことを述べないのもまた不忠であり、なかなかに難しい問題であったと言えます。

幕閣の反対を受けるも、井伊直弼は処刑を決定する

この時の左内の罪は、通常の基準であれば、遠島(追放刑)が妥当なところで、幕府の裁判所である評定所は、そのような決定を下そうとしました。

しかし安政の大獄を主導していた井伊直弼は、ささいな罪であっても、自分に反抗した者は処刑するという方針をとっており、このために左内の処分を死刑に切り替えようとします。

これに対し、幕閣の間部詮勝は、左内ほどの有為な人材を死なせてしまうべきではない、と述べて反対しますが、井伊直弼はこれを押し切って、左内を処刑することにしました。

左内が主張する政体の改造は、将軍と譜代大名のみが主導する、旧来の体制を揺るがすことにつながりますので、保守的な井伊直弼は、左内を危険人物と見なしたのだと思われます。

伝馬町牢屋敷で処刑される

左内は江戸の伝馬町牢屋敷に収容されましたが、この時には長州の思想家・吉田松陰も同じ施設に入っていました。

松陰もまた、死罪になるほどの罪はなかったのですが、後に処刑されています。

この安政の大獄では、さほどの罪のない、優れた人材が数多く処刑されており、後の日本の情勢に対して、大きな悪影響を及ぼしています。

左内は無念な思いを記した漢詩を遺し、1859年の10月7日に、刑場で斬首されました。

享年は26才でした。

その死を惜しまれる

主君の春嶽は後に、「殺すほどの罪はどこにもなかった」と述べ、左内の死を惜しんでいます。

左内と面識があった水野忠徳(ただのり)という幕臣は、「井伊大老が橋本左内を殺したという一事をもって、徳川を滅ぼすに足る」とまで言っています。

つまり、有為の人材を無残に殺害するような政権には、存在価値がないとまで、その政権で働く人間が言及したことになります。

左内の同志であった西郷も「左内を殺すとは、幕府は血迷っている」と述べ、おおいに嘆きました。

左内の死が惜しまれ、幕府への批判の言葉が多く上がっているのは、左内は日本という国のため、公のために純粋に物事を考え、行動していた人物でしたので、その彼を処刑するような政権は、この国のためにならない存在である、と思わせることにつながったのでしょう。

この安政の大獄によって、幕府は倒されるべき存在なのではないか、と考える者たちが現れ始め、後に倒幕運動へと発展していくことになります。

左内は、そのための犠牲になったのだと言えます。

【次のページに続く▼】