吉田松陰 松下村塾を開き、長州藩の変革を促した思想家の生涯について

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吉田松陰は幕末に思想家・教育者、そして革命家として活動した人物です。

日本が西洋諸国から圧迫を受け、いずれは植民地にされてしまうのではないかと危惧された状況下で、いち早く国体を変革するための思想を打ち立てました。

それは徳川幕府を倒し、天皇を中心とした統一国家を作り、西洋諸国の脅威に対抗できるようにする、というものでした。

しかし松陰が生きていた頃には、幕府はまだ強勢であり、やがて大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」という大弾圧に巻き込まれ、若くして命を落とすことになります。

松陰の遺志は、松下村塾の門弟たちに受け継がれ、長州藩の変革を促し、倒幕派の中心勢力として駆動させることになりました。

この文章では、そんな松蔭の生涯について書いてみます。

【吉田松陰の肖像画】

長州藩に生まれる

松蔭は1830年に長州藩士・杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)の次男として誕生しました。

杉家は20石程度の収入の少ない家で、武士とはいっても農業を兼業しなければ生活が立ち行かない境遇でした。

しかし学問に熱心な家柄であったため、優れた頭脳の持ち主が多く、より収入が多い他家の養子となって、家督を継ぐことがしばしばありました。

この時代では、低い階層の武士の子は、学問を身につけることで身分の上昇を図ることができ、その影響もあって、杉家でも学問に熱心に取り組むようになっていたのだと思われます。

こうした家の出身であった松蔭もまた、4才の時に叔父・吉田大助の養子になっています。

吉田大助は山鹿流(やまがりゅう)という軍事学の師範であり、松蔭は彼の養子になった時点で、自身も山鹿流を修め、長州藩の人々にそれを教授する立場につくことが決まりました。

長州藩とは

長州藩は現在の山口県のあたりを領有していた外様大名・毛利氏の藩です。

毛利氏は戦国時代に毛利元就が興した大名家で、最盛期には中国地方の大半を支配する大勢力となっていました。

しかし天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いで敗れたことから、徳川家康によって120万石から37万石へと大幅に領地を削減され、中国地方の西の端に押し込められてしまいます。

こうして領地を減らされた際に、家臣の解雇をしなかったために、杉家のように、小さな石高しか持たない家臣を多く抱えることになりました。

この時に帰農した者も数多く、こうした経緯があったため、長州藩は他藩と比べ、武士と農民の身分を越えて結束が強かった、と言われています。

幼い頃から厳しい教育を受ける

松蔭が吉田家の養子になってから1年後、5才の時に養父が亡くなります。

このため、松蔭はもうひとりの叔父である玉木文之進から教育を受けることになりました。

この文之進が、居住する村の子弟のために開いていたのが「松下村塾(しょうかそんじゅく)」です。

松蔭は後にこの塾の号をもらい受け、自身も長州藩の若者たちの教育に携わることになりました。

文之進は厳しい教育を松蔭に施しており、時には体罰を加えることもあったようです。

文之進は徹底して私欲にとらわれず、公のために尽くすことが武士の道であると叩き込み、それを素直に吸収した松蔭は、やや傾きの強い性格の若者として育っていきました。

文之進は後に陸軍大将となった乃木希典にも同様の教育を施しており、彼らはいずれも、公に尽くす意識が非常に強い人物として成長しています。

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