吉田松陰 松下村塾を開き、長州藩の変革を促した思想家の生涯について

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脱藩して士籍を失う

1852年になると、松蔭は九州で知り合った友人の宮部鼎蔵(ていぞう)たちと、見聞を広めるために東北への旅行を計画します。

しかし藩から発行される通行手形の準備が出発日までに間に合わず、このために松蔭は脱藩をして旅行に出発しました。

脱藩とは藩士をやめることを言うのですが、無断で脱藩をするのは犯罪行為であり、所属していた藩に捕縛されると、死刑になることもありました。

そこまで行かずとも、先祖代々受け継がれてきた家禄は没収され、藩士としての身分を失うことになります。

このため、友人たちとの旅行のために脱藩をするというのは異常な判断であり、ここに松蔭という人の奇妙さが現れています。

松蔭からすれば、東北旅行は自らの兵学者としての見識を広げるための大事な活動であり、これを実行することは公に尽くすことになるのだから、脱藩しても構わない、といった心情だったのかもしれません。

しかし現実の法の手続き上、松蔭は罪人になってしまったわけであり、江戸に帰還した後、士籍も家禄も失ってしまうことになります。

長州藩は若者の跳ね返った行動に対しては寛容だったので、死刑にはなりませんでしたが、松蔭はこうしていったんは長州藩士でなくなってしまいました。

しばらくして帰藩が認められたようですが、藩士の身分や家禄にこだわることは私欲であり、省みる必要がない、とすら松蔭は考えていたのかもしれません。

この時の行いから、後に松陰が打ち立てる「狂」の思想の萌芽を見てとることができます。

ペリーの来航

こうして脱藩事件を起こした翌年、1853年にはアメリカ海軍の提督・ペリーが率いる蒸気船団が浦賀沖に来航し、武装した蒸気船団の威力を背景に、強引に徳川幕府に開国を迫りました。

松蔭は師の佐久間象山とともに浦賀に赴き、蒸気船の姿を見物していますが、これはアヘン戦争の流れから予測できる事態であり、ついに来たるべき時が来たか、という心情を抱いたと思われます。

幕府はペリーの横暴なふるまいを咎めることができずに屈服し、いよいよ清と同じく、日本もまた西洋諸国の脅威にさらされる時代となりました。

象山はこの時に幕閣に向けて「西洋に人を送って、その情勢を詳しく調査するべきである」という意見書を送っており、松蔭にも同じことを話していたと思われます。

このことが、思い立ったら行動せずにはいられない松蔭の、激しい活動を引き起こすことになりました。

海外渡航を計画し、実行に移す

松蔭はなるべく早く海外に渡って見聞を広めることを企図し、同郷の弟子・金子重之輔とともに長崎に向かいます。

この当時、長崎にはロシアのプチャーチンの艦隊が日本との外交交渉のために寄港しており、この艦隊に乗船し、外国に連れて行ってもらおうとしました。

しかしちょうどこの時に、ロシアとオスマン帝国の間でクリミア戦争が発生したことから、プチャーチンの艦隊はこれに参戦するために、予定を繰り上げて出港しており、松陰は目的を果たすことができませんでした。

この当時はまだ、私的に海外渡航を企むことは犯罪であり、脱藩と同じく、場合によっては死刑になる可能性もありました。

にも関わらず、松蔭は死を賭して海外渡航を実行しようとしています。

これもまた、松蔭からすれば公のために尽くす行為であり、思い立ったからには自分の身をかえりみず、万難を排して実行せねばならない、という思いだったのでしょう。

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