吉田松陰 松下村塾を開き、長州藩の変革を促した思想家の生涯について

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処刑されると決まる

それでも松蔭は、間部詮房を殺害する意図はなかったと主張し、このために罪に問われても、死罪にまではならないだろうと考えていました。

しかし幕府は「吉田松蔭は間部詮房を殺害する意図を持っていたと自白した」と記した調書を捏造し、これに署名するようにと要求して来ました。

この対応により、松蔭は幕府が自分を処刑するつもりになっていることを知ります。

安政の大獄を主導していた井伊直弼は、不穏分子を一掃してやろうという強い意志を持っており、疑わしき者は全て厳罰に処する、という方針を取っていました。

このため、計画は未遂で、殺害する意図はなかったと主張したものの、松蔭もまた処刑されることになったのです。

計画を立てただけで処刑というのは、明らかに重すぎる量刑だと言えます。

この頃に、たいした罪のない志士が処刑されたと知った松蔭は、もはや逃れられない状況なのだと悟り、実際にはしていない自白調書に署名し、処刑されることを受け入れます。

かねてから考えていた、自分が死んで道を示す時が来たのだと、悟ったのかもしれません。

幕府の横暴を知らしめるには、うってつけの状況であったとも言えます。

「留魂録」を残し、処刑される

松蔭は残る時間を「留魂録(りゅうこんろく)」という、事件のあらましと自身の心境を書いた文章の作成に費やして完成させると、牢名主(囚人から選ばれ、牢の取り締まりを担当した者)に預け、長州藩邸に届けてほしいと依頼しました。

そして処刑の当日が来ると刑場に引き出されましたが、松蔭は首を斬られるその時まで、落ち着き払った様子を見せ、立ち会った処刑人や役人たちに感銘を与えています。

この時にはもう、覚悟が定まっていたのでしょう。

松蔭は1860年の10月27日に、伝馬町牢屋敷にて斬首されました。

享年は30でした。

留魂録が回覧される

牢名主は松蔭との約束を守り、牢の役人に頼んで留魂録を長州藩邸に届けさせました。

これによって松蔭の遺志が弟子たちに伝わり、彼らの行動に大きな影響を及ぼすことになります。

松蔭はこの文書の中で、自分が30才で生を終わろうとしていることについて語ります。

惜しむべきことのようにも思えるけれども、寿命は人によって異なり、定まったものではなく、ここで死ぬのが自分の運命なのだろうと、透き通った覚悟を述べています。

そしてもしも同志の諸君たちの中に、私のささやかな真心を受け継いでくれる者がいれば、まかれた種が絶えずに、穀物は年々実っていき、収穫を得られることになるだろう、と告げます。

そのことを同志諸君は考えて欲しい、と伝え、自分が30年の生涯で成し遂げられなかったことを継承し、やり遂げてほしいと促しました。

これを受けて松蔭の弟子たちは奮いたち、やがては長州藩そのものを尊王攘夷活動に邁進させ、時に暴発しながらも、明治維新の達成まで駆動し続けることになります。

純粋な思想家として生涯を完結させる

革命が起きる時には、まず人々の意識を変える思想家が先駆的に登場しますが、その人物は純粋な意志をもって行動するがゆえに、非業の死を遂げることが多いようです。

松蔭は幕末という変動期に生まれ、独自の思想を掲げ、それに殉ずるようにして行動した結果、時代の変革への先導者になりました。

そして松蔭の死後に弟子たちがその遺志を継ぎ、日和見の傾向が強かった長州藩の政論を変え、倒幕勢力の中核として成立させることになります。

しかし、松蔭に関わった者たちは、その多くが若いうちに死んでしまっていることを思うと、純粋な思想家は、劇薬のような存在なのだとも言えるのでしょう。

松蔭は自らそうなろうと志し、その通りにやり遂げた人物なのだと言えます。