吉田松陰 松下村塾を開き、長州藩の変革を促した思想家の生涯について

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孟子の研究を行う

やがて牢獄の役人が松陰に好感を抱くようになり、牢獄内の勉強会が行いやすくなるよう、ろうそくを用意するなどの便宜を図ってくれました。

松陰はこの役人に頼んで書物を揃えてもらい、「孟子」の購読会を開催します。

このことが、松陰の思想を大きく発展させることにつながっていきました。

孟子は儒学を学んだ思想家で、孔子が唱えた「仁」の思想を継承しつつ、それをさらに発展させた論理を展開した人物です。

この孟子の思想には、「革命を肯定する」という特徴がありました。

君主は仁愛の心を備えている必要があり、民の暮らしに配慮した善政を行う義務があるが、これを果たせずに民を苦しめるものは、君主にふさわしくないので、取り替えてもかまわない、と主張しています。

孟子は「民が一番大事で、その次が社稷(国家)で、最も立場が軽いのが君主だ」とまで言い切っています。

この革命論が、諸外国に脅かされる日本を憂う松陰に、強く影響を及ぼすことになりました。

独自の思想を立て始める

松陰は天皇こそが日本の真の統治者である、とする尊王思想も受容しており、このために孟子の革命論を、鵜呑みにはしませんでした。

日本は神の子孫である天皇が、歴史上ずっと統治者としてその地位を保っており、神聖にして侵さざるべきものなので、これを変えてはならない。

しかし、天皇から大権を委ねられている統治機構(徳川幕府)は絶対のものではなく、時勢に対応する能力が不足するのであれば、これを取り替えるのはかまわない、という、独自に孟子を変化させた思想を考え出しました。

そして天皇の元に万民は平等となり、天皇のために万民が尽くすという、中央集権の国家体制を構築し、西洋から圧迫されている日本を救うべきである、という政体論を打ち立てます。

この松陰の論理を追っていけば、すなわち因循な幕府を倒して新しい政体を作ろうとする、倒幕論へと発展していくことになります。

実際の歴史においては、天皇は必ずしも日本全体を統治できてはおらず、また、神聖視されていたとも言い切れず、そのように長州藩の学者から批判されるのですが、松陰はこれに反発し、批判を受け入れませんでした。

松陰はこの思想が日本を救う上で必要なものだと考えていたので、歴史の事実はあえて無視をしたのだと思われます。

思想というものは、現実から飛躍し、純化しなければ成立しえないものだからです。

松陰の思想は、後に明治政府のありようにも強く影響を及ぼすことになりました。

このようにして、松陰の思想はその純粋さと過激さを、増していくことになります。

なお、この時の松陰の思索は「講孟余話(こうもうよわ)」という書籍にまとめられ、後に弟子たちが出版しています。

松下村塾を開く

やがて出獄が許された松蔭は、1857年に、実家の杉家の敷地内で松下村塾を開きました。

これは先に触れた通り、自身が幼いころに学んだ叔父・玉木文之進の塾の名をもらい受けています。

松蔭は師匠になっても偉ぶることはなく、若者たちを同格の存在として扱ったため、自然とその人柄を慕い、多くの若者たちが顔を出すようになっていきました。

松蔭は若者たちひとりひとりの人柄や能力を観察し、それぞれに必ずほめるべき点を見つけ、それを伝えています。

この時に松蔭の弟子となったのは、久坂玄瑞(くさか げんすい)、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江九一、伊藤俊輔、山県狂介らです。

その多くは幕末の動乱の渦中で命を落としますが、生き残った者は明治政府の元勲となって出世し、松蔭を顕彰し、やがてはその名を日本中に知らしめることになります。

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