ペリー艦隊の旗艦に乗船する
翌1854年になると、ペリーが開国交渉のために再び来航します。
この頃に松蔭は金子重之輔とともに江戸に戻っており、今度はペリーの艦隊に頼んで、アメリカに連れて行ってもらおうと計画しました。
松蔭と金子重之輔は海岸につながれていた小舟を盗み、ペリー艦隊の旗艦・ポーハタン号に漕ぎ寄せ、船上に引き上げてもらいます。
そして西洋事情の視察のためにアメリカに連れて行ってほしいとペリーに頼みますが、断られてしまいました。
ペリーは陸に戻れば犯罪者になってしまう松蔭に同情しましたが、日本の国法破りを黙認すれば、外交交渉が破綻する可能性があるために受け入れるわけにはいかず、このために松蔭の頼みを断ったのです。
松蔭の計画はいかにも性急すぎ、この時点では無理があったのだと言えます。
松蔭たちはやむなく小舟で元の場所に戻ろうとしますが、この際に難破してしまい、ほうほうの体で海岸に戻りました。
この難破の影響で金子重之輔が病気になってしまい、進退が窮まった松蔭は、下田奉行所に自首しています。
獄につながれ、師の象山も連帯責任を問われる
自首をした松蔭と金子重之輔は、江戸にある伝馬町牢屋敷に投獄されました。
そして松蔭に渡航を示唆したという罪に問われ、佐久間象山もまた捕縛され、牢屋敷に入獄しています。
この時に幕府の内部では、松蔭と象山を死刑にするべきではないかという意見も出ていましたが、首相格で、開明派の阿部正弘が反対し、このためにそれぞれ故郷で蟄居(ちっきょ。家屋敷に押し込められる刑罰)させられることになります。
このことから、幕府内部にも、鎖国(外国と積極的に関わりを持たない)という時代遅れの方針に、いつまでも縛られるべきではない、と考えていた人物がいたことがわかります。
ともあれ、松蔭は長州藩の牢獄に引き取られ、そこで処罰を受けることになります。
師の佐久間象山は故郷の松代に戻され、自分の屋敷に押し込められました。
こうして師弟がそろって罰せられ、しばし時勢の中からその存在が消えることになります。
金子重之輔が病死する
長州に戻ると、松蔭は士分で罪を犯したものが収監される野山獄(のやまごく)に入れられます。
一方で金子重之輔は身分の低い足軽の出身であったので、これとは別の岩倉獄に入れられ、やがて病死してしまいました。
士分である松蔭に比べると藩からの扱いが悪く、このために体調を回復させることができなかったようです。
現在では、松陰の銅像に寄り添うようにして金子重之輔の像も建てられており、その勇敢な行動が顕彰されています。
獄中で囚人たちと交流を持つ
松蔭は金子重之輔の死を悼みつつも、生来の前向きな気持を失わず、他の囚人たちと交流を持ち、互いに得意なことを教え合おうと呼びかけました。
松蔭は教えたり学んだりすることが、心から好きな人物であったのでしょう。
この時に松蔭は富永有隣という儒学者と親しくなり、後に松下村塾で講師を頼んだりもしています。
この富永有隣は偏屈な人物で、頭脳は優秀であったものの、同僚や親類たちと折り合いがつけられず、このために罪に落とされて牢に入れられていました。
松蔭は相手が変わり者であってもうまく付き合うことができる、懐の深さを持っていたようです。
また、松陰は病気がちとなっていた他の囚人を心配し、医学を学んで治療しようともしており、心根の優しい人物であったこともうかがえます。
【次のページに続く▼】