三国志の時代、西暦200年に曹操と袁紹は官渡(かんと)の地で決戦を行い、曹操が勝利を収めました。
この時の兵力は曹操が4万で、袁紹が10万であり、圧倒的に袁紹が有利な情勢でした。
しかし袁紹の陣営は人材が多いもののまとまりを欠いており、袁紹自身の優柔不断さと、戦略眼の乏しさが不安材料となっていました。
これに対し、曹操の陣営は結束が固く、荀彧や荀攸といった優れた軍師たちが曹操をよく補佐し、数の不利を補っていきます。
この文章では、曹操はどうして強者であった袁紹に勝利できたのか、について書いてみます。
【官渡の戦いに勝利した曹操の肖像画】
群雄同士の争いに勝利した曹操と袁紹
黄巾の乱に続いて董卓の暴政が行われた結果、後漢の王朝の権威はすっかりと凋落し、中国大陸を統制するための実力を失ってしまいました。
このため、大陸の各地で群雄たちが割拠するようになり、北東部では曹操、袁紹、呂布、劉備、公孫瓚(こうそんさん)といった将軍たちがそれぞれに勢力を形成します。
そして曹操が呂布を倒して劉備を取り込み、袁紹が公孫瓚を撃破したことで、それぞれに勢力の拡大に成功し、ともに4州ずつを治めるようになります。
曹操と袁紹はかつては友人同士であり、乱世になってからは同盟を結んで協力していましたが、やがて覇を競う関係になり、遠からず両者の間には大きな戦いが発生しそうな情勢になっていきました。
曹操と袁紹には大きな実力差があった
彼らはともに4州ずつを支配していましたが、曹操の領地は長く続いた戦乱の影響で荒れ果て、人口が激減しており、兵力も経済力も本来のものよりも大きく低下していました。
これに対し、袁紹の支配地域である冀州(きしゅう)周辺は被害が少なく、人口の規模が保たれていたため、袁紹は曹操の倍以上の兵力を備えています。
その上、袁家は代々後漢の重臣を輩出する名門の家柄であったため、その名声を頼って仕官する人物が絶えず、優れた軍師や将軍を数多く抱えていました。
こうした状況であったため、曹操も袁紹と戦って勝利できるかは確信しておらず、朝臣たちに戦いの是非を問うています。
荀彧が袁紹陣営の欠点を指摘する
198年になると、両者の戦いが本格的に開始されますが、この時に曹操の陣営にいた孔融が、袁紹の陣営は強大なので、戦いを避けるようにと進言しました。
しかし曹操が最も信頼する荀彧(じゅんいく)がこれに反論します。
「袁紹軍は数こそ多いものの、軍法が整っていないので恐れるには足りません。将軍の顔良と文醜は勇気があるというよりも粗暴な輩であり、計略を用いれば一度の戦いで討ち破れます。また、軍師の田豊(でんほう)は優れた人物ですが、強情なために袁紹に用いられず、許攸は貪欲で身持ちが悪く、審配は独断的で、逢紀(ほうき)は人と協力することができません」
といったように、袁紹が頼みとする人材の欠点を並べ立て、これらの弱点をつけば勝利することは十分に可能であると主張しました。
曹操はこの荀彧の言葉を受け入れ、袁紹との戦いを継続することを宣言しました。
劉備が曹操から離反するも、袁紹は好機を見逃す
199年になると、曹操から徐州を任されていた劉備が離反します。
そして使者を送って袁紹と同盟を結ぼうとしました。
劉備がこのまま袁紹と協力関係を作ってしまうと、徐州の支配権が移って5州対3州という勢力図になってしまいますので、ただでさえ戦力で劣る曹操は、かなりの危機に追い込まれたことになります。
この時に田豊が袁紹に対し、曹操が劉備討伐のために本拠を開けざるを得ない好機を活かして攻撃を開始し、曹操を攻め滅ぼすべきだと主張しますが、袁紹はこれを受け入れませんでした。
この時に子どもが病気になっていたため戦いに行きたくなかった、というのがその理由でしたが、これによって曹操は危機を脱する機会を得て、同時に袁紹は好機を逃すことになります。
子どもの病気を気にするのは親としては立派かもしれませんが、大勢力を率いる君主としては、決断力に欠けるふるまいであったと言えます。
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