曹操はどうして官渡の戦いで袁紹に勝利できたのか?

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劉備が敗れ、関羽が曹操に降る

曹操は袁紹が見せたこの隙を見逃さず、徐州に攻め込んで劉備を撃破しました。

そして劉備の義弟である関羽を降伏させ、客将として迎えています。

劉備からすれば、袁紹と協力して曹操を討ち破る算段だったのでしょうが、袁紹の戦略眼のなさによって、そのもくろみが外れてしまったことになります。

このため、徐州を失った劉備は残党を率いて袁紹の元に身を寄せ、こちらも客将として活動することになりました。

戦いの始まり

翌200年になってから、袁紹はようやく本格的に曹操を打倒するための活動を開始します。

この時に袁紹の陣営では、作戦案が2つに割れていました。

袁紹軍の総司令官である沮授(そじゅ)は持久戦を主張し、これに田豊も賛同します。

その理由は、曹操は戦術に巧みであるので、数が少なくとも侮れない。なので数の有利が働く持久戦に持ち込み、曹操と敵対する群雄と手を結んで複数の方面から攻撃を行えば、その勢力は自ずと弱体化して行き、3年以内に勝利を得ることができる、というものでした。

これに対し、同じく袁紹の重臣であった郭図(かくと)と審配は短期決戦を主張しました。

袁紹自身も短期決戦で曹操を倒したいという意向を持っていたため、郭図と審配の意見を支持し、短期決戦の方針が取られることになります。

もしもこの時に沮授と田豊の意見を採用していれば、袁紹が曹操に敗れる可能性は低かったでしょう。

沮授の権限を縮小させ、田豊を投獄する

沮授は袁紹に仕える人物たちの中でも、特に優れた能力を持っていました。

袁紹が4州を制するほどの成功を収めたのも、彼の力によるところが大きかったのですが、郭図はこの時に沮授の権限が大きすぎると主張し、それを分割するようにと進言しました。

袁紹はこれをも受け入れ、沮授の権限を3分割し、郭図と淳于瓊(じゅんうけい)に与えています。

こうした動きから、郭図は袁紹のためではなく、自分の出世のために沮授から権限を奪ったことがうかがえます。

そして袁紹は、持久戦法を繰り返し主張し続けた田豊を疎み、これを投獄する措置を取っています。

こうして袁紹は優れた人材の権限を縮小し、あるいは投獄するという、自らの陣営の力を弱める動きを戦いの前に進めており、せっかくの有利な状況を損なっていきました。

荀彧が指摘した通り、袁紹軍の人材には性格的な欠点を持つ者が多く、袁紹がそれを飲み込んだ上でうまく活用できるだけの度量を持っていなかったため、内部分裂が進行していくことになります。

関羽が顔良を討ち取る

袁紹は曹操軍の主力が徐州に駐屯している隙をつくため、白馬に布陣していた別働隊の劉延を攻撃することにしました。

この時に袁紹は郭図と淳于瓊、そして顔良の3人を指揮官とします。

沮授は「顔良にはそれだけの力量はないので、独立した権限を持った指揮官にはしない方がよいでしょう」と諌めますが、袁紹は聞く耳を持ちませんでした。

これに対し、曹操は軍師の荀攸(じゅんゆう)を伴い、于禁・楽進・張遼・関羽らを率いて白馬へと向かいます。

荀攸は荀彧の甥で、曹操軍の中でも一、二を争う優れた作戦立案能力を備えていました。

この時に荀彧は曹操の本拠の防衛と行政を担当しており、この荀家の二人の優れた人材が、官渡の戦いにおいて曹操を力強く支えていくことになります。

荀攸は顔良を討ち破る策を立て、于禁と楽進を囮にして顔良の部隊を陽動し、その戦力を分散させることに成功します。

そして顔良の周囲が手薄になったのを見計らって、張遼と関羽に突撃をかけさせました。

関羽は敵中深くにまで斬り込んで、あっさりと顔良の首を討ち取り、白馬の戦いを勝利に導きました。

沮授の指摘の通り、顔良には単独で曹操軍と立ち向かえるだけの力量はなかった、ということになります。

しかし袁紹はこの後も常に的確な献策をする沮授の言葉を受け入れず、いたずらに戦況を悪化させていきました。

この時に沮授の進言があたっていたにも関わらず、取り上げずに失敗してしまったことで面目を潰され、それ故に意固地になってしまったのかもしれません。

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