「泣いて馬謖を斬る」とは 諸葛亮と馬謖の関係性について

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「泣いて馬謖ばしょくを斬る」とは、三国志の故事を元にした言葉です。

「目をかけてきた優秀な部下が罪を犯したが、規律を守り、公正さを保つために、やむなく厳罰を与える」という意味です。

これは蜀の諸葛亮が、部下の馬謖を処刑したことから生まれています。


【後世に描かれた馬謖の肖像画】

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諸葛亮の抜擢

諸葛亮はかねてより、9才年下の馬謖に目をかけて寵愛し、自分の腹心として用いようと考えていました。

やがて諸葛亮は敵対する魏を討伐するため、228年に大軍を率いて北伐を実施します。

そして魏の領土を奪うことに成功し、さらに戦果を拡大するため、馬謖を先鋒部隊の指揮官に任命しました。

そして攻撃の拠点となる街亭がいていの確保を任せます。

馬謖には実戦の経験がほとんどなかったので、軍中では経験豊富な魏延などを、この任務にあてるべきではないかと意見が出ます。

しかし諸葛亮は馬謖の才能を高く買っており、この人事を押し通しました。

諸葛亮は蜀の全権を握る存在でしたので、彼が我を通せば、それがくつがえることはなかったのでした。

おそらく諸葛亮は、この機会に馬謖に大事な仕事を任せて手柄を立てさせ、以後の魏討伐戦において、自分の右腕として働かせたいと考えていたのでしょう。


【馬謖を抜擢した諸葛亮】

馬謖の失敗

この時に諸葛亮は、防衛がしやすい山裾の、水路の側に陣営を構えるようにと、馬謖に命じていました。

しかし馬謖はこの命令に違反し、勝手に付近にある南山に登り、そこに陣を構えます。

山上では水が確保しづらいので、副将の王平が山を下りるようにと何度も馬謖をいさめますが、自分の策に自信を持っていたのか、馬謖は耳を貸しませんでした。

そして馬謖が出す命令は煩雑なものが多く、軍の統率が乱れていきます。

やがてこの方面に、魏の将軍・張郃ちょうこうがやってきました。

こちらは黄巾の乱から40年以上も戦い続けている、経験豊富な優れた武将です。

張郃は馬謖が山上に陣を構えているのを見ると、水をくむための通路を断ち切り、蜀軍を渇きで苦しめます。

そして蜀軍の士気と体力が落ちたころあいを見はからって攻撃をしかけ、散々に打ち破りました。

この馬謖の大敗により、蜀軍は侵攻するための拠点を失ってしまいます。

このため、諸葛亮はやむなく全軍に撤退を命じました。

そしてせっかく手に入れた魏の領地を奪い返されてしまい、ほとんど戦果をあげることができなかったのでした。

馬謖を処刑する

諸葛亮は漢中という拠点に帰還すると、間もなく馬謖を処刑しました。

単に敗北しただけなら、降格はされても処刑はされませんが、馬謖は諸葛亮の命令に違反して敗北し、作戦全体を失敗に導いてしまったために、罪が非常に重くなりました。

このために厳しい処分を受けることになったのです。

諸葛亮は普段から馬謖と親しくつきあい、大きな期待をかけていただけに、断腸の思いで処刑命令を出しました。

この時に諸葛亮は涙を流した、という記録があることから「泣いて馬謖を斬る」と言われるようになったのでした。

自らも降格処分とする

諸葛亮は馬謖を処刑した後、将兵たちに謝罪しています。

そして次のように蜀の皇帝・劉禅に上奏しました。

「私はつたない才能ながら、分不相応な位について全軍を指揮しましたが、軍規を守らせることができず、街亭では命令に背かれるという誤りを犯しました。

その責任は私にあり、任命の方針を誤り、人物を見定める明哲さがなかったことが原因です。

敗戦の責めは総司令官が負うべきですので、どうか私の位を三階級下げてください」

これを受け、劉禅は諸葛亮を右将軍に降格させる処分を取っています。

こうして諸葛亮は、馬謖の本質を見抜けなかったことを悔い、任命責任によって、自身をも罰したのでした。

【次のページに続く▼】

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