賈詡 張繡や曹操に仕えて活躍した智謀の士

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賈詡かくは董卓、李傕、張繡ちょうしゅく、曹操らに仕えて活躍した軍師です。

人並み外れた智謀を備えており、その計略によって戦いを勝利に導き、情勢に大きな影響を与えています。

そして曹丕が曹操の後継ぎになる上で貢献したので、最終的には太尉たいいという高官の地位につきました。

一方で、李傕らを焚きつけて漢王朝の衰退に拍車をかけた経緯があったため、その点を後世から非難されることにもなっています。

この文章では、そんな賈詡について書いています。

賈詡
【清代に描かれた賈詡の肖像】

涼州に生まれる

賈詡はあざな文和ぶんわといい、涼州の武威ぶい郡、姑臧こそう県の出身でした。

147年に誕生しています。

若い頃はさほど人に知られた存在ではありませんでしたが、漢陽の閻忠えんちゅうという人物だけが、賈詡を評価していました。

「賈詡には張良や陳平のような奇才がある」というのが、閻忠による賈詡の評でした。

張良や陳平は、前漢の初代皇帝・劉邦に仕えた参謀で、いずれも優れた智謀の持ち主として歴史に名を残しています。

やがて時が過ぎるにつれ、この評が正しかったことが証明されていきます。

氐族に捕らえられる

賈詡はやがて孝廉こうれんに推挙されて郎になり、官途につきます。

しかし病気になったので役人をやめ、西方へ帰還する途中でけんという土地に立ち寄りました。

するとそこで、反乱を起こしたてい族(西方に住む異民族)の一団と遭遇します。

賈詡には数十人が同行していたのですが、全員が捕らえられてしまいました。

偽りを述べて危機を切り抜ける

賈詡は氐族の者たちに対し「私は段公の外孫である。

おまえたちは私を殺害した後で、他の者たちとは別に埋葬するがいい。

そうすれば、我が家の者が必ず手厚い礼をして引き取るだろう」

「段公」とは当時の太尉(国防大臣)である段熲だんけいのことで、その昔、久しく辺境の指揮官を務めていたことがあり、その勢威は西方の地を震わせるほどでした。

このため、賈詡は段熲の名を借りて氐族を恐れさせたのです。

すると氐族は、賈詡が予測したとおりに危害を加えようとせず、盟約を結んでから送り出しました。

しかし、他の者たちはみな殺害されてしまいます。

賈詡は実際には段熲の外孫ではなく、偽りを述べて危機を切り抜けたのでした。

賈詡が臨機応変に物事に対処するやり方は、このようなものでした。

董卓に仕えて立身する

やがて賈詡は、涼州で勢力を伸ばしていた董卓に仕えるようになりました。

そして董卓は中央の混乱に乗じて洛陽に入城し、皇帝をすげかえるなどして権力を掌握します。

すると賈詡は太尉えん(属官)のままで平津へいしん都尉に任命され、討虜とうりょ校尉(中級指揮官)に昇進しました。

董卓の娘婿である中郎将(上級指揮官)・牛輔ぎゅうほせんに駐屯しましたが、賈詡はその軍に所属するようになります。

この時点では、まだ董卓軍の一将校の身分だったのでした。

董卓らが死去する

董卓はその後、諸侯の反抗を受けて洛陽を放棄し、長安に遷都しました。

しかしそこで腹心の呂布に裏切られ、殺害されてしまいます。

すると牛輔もまた死んでしまったので、兵士たちは恐れおののきました。

このため、校尉の李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせいらは軍を解散し、間道を通って郷里に帰りたいと考えるようになります。

李傕らを焚きつける

弱気になっていた李傕らに対し、賈詡は次のように言いました。

「聞くところによると、長安では涼州人を皆殺しにしようと議論をしているそうです。

それなのに諸君は、軍勢を捨てて身一つで落ちのびようとしている。

それでは亭長ていちょうひとりでも、諸君らを捕らえることができてしまいます。
(亭長は宿駅の長で、治安維持や旅客の管理をしていた小役人のことです)

それよりも軍勢を率いて西に向かい、行く先々で兵を集めて長安を攻撃し、董公(董卓)の仇を討った方がよいでしょう。

幸いにして、うまく事態が進んだなら、国家を奉じて天下を征すればよく、もしもうまくいかなかったならば、それから逃げればよいのです」

これを聞くと、諸将はもっともだと思います。

そして李傕が中心になって西へと向かうと、やがて10万もの兵が集まりました。

勢いを得た李傕らは、長安を包囲して攻撃します。

【次のページに続く▼】