呂乂は蜀に仕えて活躍した政治家です。
各地の統治に成功して民衆に慕われ、高い名声を得ました。
その後、中央に戻って尚書令にまでなりますが、法の施行が厳格すぎたため、評判を落としてしまうことになりました。
この文章では、そんな呂乂について書いています。
南陽に生まれる
呂乂は字を季陽といい、荊州の南陽郡の出身でした。
父の呂常は188年に、かつて仕えていた劉焉が益州に入る際に、送りに出かけました。
すると、戦乱によって益州と荊州の間が途絶してしまったため、そのまま帰郷することができなくなります。
このため、呂乂は幼くして孤児になってしまいました。
そのような境遇でしたが、読書と音楽に親しみつつ、成長していきます。
「188年に幼かった」という記録があることから、呂乂は180年頃の生まれだったのだと思われます。
益州に移住し、役人となる
それから時をへて、214年に劉備が益州を平定すると、新たに塩府校尉を設置し、塩と鉄の専売によって利益を得ようとしました。
この役職についた王連は、同郷の呂乂や杜祺、劉幹といった人材を招聘し、典曹都尉(書記官)に任命します。
これによって呂乂は、益州の役人となりました。
父親と再会できたのかは不明です。
ちなみに呂乂だけでなく、杜祺や劉幹もまた、後に蜀の大官になりました。
王連には人を見る目があったようです。
県令や太守を歴任する
呂乂はやがて、新都や緜竹の県令に就任しました。
そして、それらの地域で慈悲深い統治を行ったので、民衆は彼を称賛し、益州の県の中で、最も優れた政治を行っている、とまで評価します。
このためやがて、呂乂は巴西郡の太守に昇進しました。
兵員を確保する
その後、諸葛亮が228年に北伐を開始すると、毎年のように出兵を繰り返しました。
それに伴い、必要な人員や物資が、諸郡から調達されることになります。
この調達がうまくいかず、不足する場合も多かったのですが、呂乂は巴西で五千人の兵士を集めると、それを諸葛亮の元に送りました。
この時、呂乂はいたわりをもって、集まった者たちを教えさとし、しっかりと取り締まりを行なったので、逃亡する者はいませんでした。
この働きを評価されたようで、間もなく転任し、北伐の拠点となっていた漢中の太守になります。
そして督農校尉を兼任し、兵糧を切らさないよう、前線に輸送する任務を与えられました。
このように、呂乂は北伐において、後方支援の面で活躍したのでした。
蜀郡の太守としても事跡を残す
234年に諸葛亮が亡くなった後、呂乂は広漢郡や蜀郡の太守を務めます。
蜀郡は都会で、人口が多い上に、戦いから逃亡した兵士が入り込んでいました。
彼らは他人の戸籍や名前をかたり、身分を偽造する事態が多発したので、蜀郡は混乱した状況になります。
このため、呂乂は赴任すると防止策を実施し、住民に教育と指導を行ったので、数年もたつと、自分から蜀郡を出ていく者が一万人以上にものぼり、治安が改善されました。
呂乂は地方官としては、優れた力量を備えた人物だったのでした。
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