司隷校尉は漢代や三国時代に存在した官位です。
古代の周王朝の時代に「司隷」という官位があり、それが元になっています。
司隷は「隷(罪人や捕虜)を司る」という意味です。
古代では、懲役囚に公務(公共の工事や辺境の守備)の手伝いをさせ、それによって刑罰を減免する風習がありましたので、その際の監督をしていたのだと思われます。
前漢では
前漢の武帝の時代、紀元前89年になると、首都周辺の犯罪を取り締まるため、はじめて司隷校尉が設けられました。
【司隷校尉を設置した武帝】
これは1200人の懲役囚や官吏を用い、巫蠱という呪殺行為を行った者を取り締まるのが任務でした。
「校尉」は中隊長程度の武官の地位です。
懲役囚や官吏を率いる立場だったので、名称に校尉が付与されたのでしょう。
当時、武帝が病に倒れていたのですが、これは巫蠱によって呪った者がいるのが原因だと、武帝に偽りを吹き込んだ臣下がいました。
このために司隷校尉が、呪術を行ったと疑われるものを逮捕して取り締まったのですが、その人数は数万にも達したと言われています。
これは巫蠱を行ったとわかると、皇帝に対する大逆罪とみなされ、すぐに死刑になったためです。
この状況を利用して、邪魔者を消そうと民が互いに密告しあうようになり、処刑された者が大変に増えてしまったのでした。
このように、司隷校尉は当時の社会不安から発祥した官位だったのだと言えます。
職務の変化
その後、司隷校尉の職域は拡充され、皇太子や貴族、大臣、官僚、民衆に至るまで、あらゆる階層を取り締まる権限を与えられました。
そして節(独断で罪人を処断する権利)をも与えられ、強制的に捜査を行うことが認められます。
この強大な権限によって、首都で発生するあらゆる犯罪を取り締まるのが、司隷校尉の任務だったのでした。
現代で言えば、警視総監と検事総長を合わせたような存在だったと言えるでしょう。
この時期に司隷校尉だった者には、諸葛豊がいます。
彼は諸葛亮や諸葛瑾の祖先だとされています。
諸葛豊は元帝(在位 紀元前48-33年)の信任を受け、相手がどれほどの高官であっても、ためらわずに弾劾したため、非常に恐れられました。
当時の都では、「諸葛に遭遇すると、しばらく姿が消えてしまう」などと言いはやされたほどです。
しかしある事件がきっかけで、その権限は縮小されることになります。
ある時、元帝の外戚(親類)である、許章の賓客が罪を犯しました。
この際に、諸葛豊は許章をも逮捕しようとして節を掲げ、彼を車から引きずり下ろそうとします。
すると許章は助けを求めて元帝の宮殿に逃げ込みました。
諸葛豊は追跡し、元帝に訴えて許章を逮捕しようとしましたが、やりすぎだとして不興を買い、節を取り上げられてしまいました。
これがきっかけで、司隷校尉は独自の裁量権を喪失しています。
その後、諸葛豊はあまりに取り締まりに容赦がなかったため、批判する者が増えていき、やがては罷免されてしまいました。
このように、前漢において司隷校尉は、警察と検察の役割を果たしていたのですが、権限が強力すぎて横暴になりかけたため、縮小されることになったのでした。
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