首都圏の長官となる
後漢の時代になると、洛陽とその周辺地域、つまりは首都圏の行政長官の地位へと変化していきました。
地方の統治は州刺史が担当していましたが、首都圏のみは司隷校尉が、特にその任務にあたっています。
首都には皇族や高官たちが住んでいますので、彼らをも取り締まることができる司隷校尉が、地域全体の監察をも担当するのが適任だと、判断されたのでしょう。
このため、首都周辺の地域は「司隷校尉部」と呼ばれ、後に「司州」と改名されています。
具体的には、京兆尹、右扶風、左馮翊、河内、河南、弘農が司隷校尉の統治範囲でした。
民政は河南尹が行っており、司隷校尉は官吏たちの監察や、不正の取り締まりが主な任務となっています。

三国志では
曹操
三国志では196年に、長安から逃れてきた献帝を保護した曹操が、司隷校尉に任命されています。
当時の司州は董卓によって荒らされ、首都圏としての機能を喪失していました。
そして司州西部にある長安には、李確と郭汜が割拠しており、この時の司隷校尉への任命は、この地域を曹操に平定させ、治安を回復しようとする意図があったと思われます。
鍾繇
曹操の後には、鍾繇が199年に司隷校尉に就任しています。
当時、涼州では馬騰や韓遂が割拠しており、曹操は鍾繇に彼らを抑える任務を与えました。
鍾繇は長安に赴任すると、馬騰と韓遂に書簡を送り、曹操に降伏した方が利益が大きいことを伝え、臣従させて西域の不安を取り除くことに成功します。
これによって曹操は北の袁紹との対決に集中できるようになったので、鍾繇の働きを高く評価しました。
その後、行政区分が変更となり、司州が廃止されたため、後漢では司隷校尉が任命されなくなっています。
張飛と諸葛亮
後漢では廃止されましたが、それを引きついだ蜀漢では司隷校尉が存在しています。
劉備は221年に蜀の皇帝に就任すると、張飛を司隷校尉に任命しました。
蜀は司州を領土にしていませんが、これは張飛に将来、司州に該当する地域を攻略させようする意図があったのかもしれません。
蜀は同じく涼州を支配していませんでしたが、馬超を涼州牧(長官)に任命しており、将来は彼を涼州に侵攻させ、蜀の領土に組み込もうとする意図をもっていました。
ですので、司隷校尉も同じ意味合いによる任命だったと考えられます。
間もなく張飛が部下に殺害されると、諸葛亮がかわって司隷校尉に就任しました。
これによって諸葛豊の子孫である諸葛亮が、先祖と同じ地位についたのでした。

【蜀漢の司隷校尉となった諸葛亮 実際に司州を統治することはなかった】
消滅
一方で曹操の子、曹丕が建国した魏も、首都を洛陽に戻し、司州と司隷校尉を復活させています。
これは晋にも引きつがれていたのですが、その後の五胡十六国の時代になると、前趙の劉曜が洛陽周辺を荊州に組み込んだために、司州が消滅し、以後は司隷校尉が任命されることはなくなっています。

