程昱は曹操に仕えて活躍した軍師です。
曹操が初期の拠点とした兗州の出身で、この地が呂布に奪われかけた際に防衛に活躍し、曹操が反抗に転じる契機を作り出しました。
また、軍勢を率いて活躍することもあるなどなど、文武両道の人物でもありました。
情勢を見通す能力が高く、常に的確な献策をすることから、曹操と曹丕に高く評価され、生涯に渡って厚遇されています。
この文章では、そんな程昱の生涯を書いています。
東阿に生まれる
程昱は字を仲徳といい、兗州の東郡、東阿県の出身です。
141年に誕生しました。
身長が八尺三寸(約193cm)と大変に長身で、あごやほおに見事なひげを生やし、立派な風采を具えていました。
黄巾の乱で東阿を守る
184年、程昱が43才の時に黄巾の乱が発生し、天下は騒然とした状況になります。
この時、東阿県の丞(副官)・王度が賊に通じ、倉庫を焼き払う騒ぎを起こしました。
すると県令(長官)は城壁を乗り越えて逃げ出し、官吏や県民たちは、子供や老人を連れて東にある渠丘山に逃れます。
この時に程昱もまた一行の中にありましたが、人を送って偵察をさせると、王度はがら空きとなった城を守らず、西へ四、五里(1.6〜2km)ほど離れたところに駐屯していることがわかりました。
程昱は王度を討つことを提案する
程昱は豪族の薛房らに、次のように言いました。
「王度は城郭を手に入れながら、そこにとどまらないところを見ると、たいした兵力は持っていないのだろう。
賊は財物をかすめ取りたいだけで、本腰を入れて戦うつもりはない。
みなで連れだって城に戻り、堅固な城と豊富な食糧を得て、県令とともにこれを守れば、王度を打ち破ることができるだろう」
すると薛房らは程昱に賛成しますが、官吏や民は賊を恐れ、城に戻ることに反対します。
そして「賊は西にいるのだから、もっと東に逃げよう」と言い出しました。
このため、程昱は薛房ら数人に、密かに東の山に登らせ、「こちらから賊が来ているぞ!」と叫ばせます。
それにあわせ、程昱が残りの仲間を連れて山を駆け下り、城のある西へ向かうと、官吏や民はあわててその後をついてきました。
そして逃げた県令を探し出し、一緒に城に戻って防衛をすると、程昱が予想した通り、王度は城に手も足も出せませんでした。
王度があきらめて立ち去ろうとすると、程昱は官民を引きつれて追撃をかけ、おおいに打ち破ります。
こうして程昱は、兵を一人も持っていなかったのに、巧みに人々を操って、黄巾賊を撃退したのでした。
この結果、「東阿に程昱という優れた人物がいる」という評判が、広まっていくことになります。
劉岱に助言をする
董卓によって後漢の統治が乱れ、各地で戦いが始まったころには、劉岱という人物が兗州を治めていました。
そして劉岱は、北方の袁紹と公孫瓚の、どちらとも同盟を結んでいました。
しかし、後に彼らが仲違いをしたため、どちらに味方をするのか、決断するように迫られます。
すると劉岱は、賢人だと名高い程昱を招き、対応を相談しました。
程昱は「もし近くにいる袁紹の助けを捨て、遠くにいる公孫瓚の助けを求めようとするのなら、失敗するでしょう。
そもそも、公孫瓚は袁紹の敵ではなく、いずれ必ず敗れます。
一時的に公孫瓚が優勢となっていますが、最終的には袁紹に捕らえられることになるでしょう。
いっときの成功に釣られて将来の計画を誤れば、あなたも失敗することになりますぞ」と返答をしました。
劉岱が程昱の意見に従うと、果たしてその後、界橋の戦いで公孫瓚は大敗し、袁紹が北方の支配者となります。
的確な助言に感謝した劉岱は、程昱を騎都尉(騎兵隊長)に推薦しましたが、程昱は病気を理由に辞退しました。
程昱はこれ以前にも、劉岱に臣下にならないかと誘われていましたが、断っています。
程昱は、劉岱は自分が仕えるに値しない存在だと見切っていたのです。
【次のページに続く▼】