黄権は劉璋や劉備、曹丕に仕えた人物です。
優れた見識と指揮能力を備えており、劉備から方面軍を任されるほどに重用されました。
しかし劉備が夷陵の戦いで敗れたために退路を失い、やむなく魏に降伏しています。
そこで曹丕や司馬懿からも高く評価され、地位が高まりましたが、目立った働きはないまま没しました。
この文章では、そんな黄権の生涯を書いています。
巴西に生まれる
黄権は字を公衡といい、益州の巴西郡、閬中県の出身でした。
生年は不明となっています。
若い頃に郡の役人になりましたか、やがて州牧(長官)の劉璋に召し出され、主簿(事務長)に任命されます。
劉備を招くのに反対する
そして211年になると、別駕(州牧補佐)の張松が、益州に劉備を迎える提案をしました。
劉備の軍勢を招き、漢中で反逆を起こした張魯を討伐させようというのがその趣旨です。
これを聞いた黄権は、劉璋をいさめました。
「左将軍(劉備)は天下に勇名を馳せるほどの人物です。
招き入れた後で、ただの部将として処遇すれば、その心を満足させることはできないでしょう。
一方で、もし賓客の礼遇を与えれば、一国に二人の君主がいることになりますので、これは容認することができません。
客人が泰山のごとく安全であれば、主人は逆に、卵を積み重ねるような危険な状態に置かれます。
今は国境を閉鎖し、黄河が澄みわたるの待つようにして、状況の変化を見定めるのがよろしいでしょう」
しかし劉璋は黄権の意見に耳を貸さず、使者を派遣して劉備を迎えさせました。
そして反対した黄権は州庁から外へ出され、広漢の太守になっています。
劉備と劉璋が争う
やがて212年になると、黄権が予測した通り、劉備と劉璋の関係は険悪なものとなりました。
そして劉備は不意に、劉璋への攻撃を開始します。
劉備は将軍たちを各地に派遣し、益州の郡県を平定させていきました。
多くの郡県はその噂を聞くだけで、ほとんどが劉備に帰服しましたが、黄権は城を閉ざして固く守り、従いませんでした。
そして214年に、劉璋が劉備に降伏するのを待ってから、初めて劉備のもとに出頭し、降伏しています。
劉備は黄権の忠義を評価し、すぐに偏将軍の地位を与えました。
このように黄権は見識・人格ともに優れた人物だったのでした。
漢中の攻略を進言する
翌215年になると、漢中を支配していた張魯が曹操に攻めこまれ、益州北部にある巴中に逃げ込みました。
すると黄権は、「漢中を失えば、隣接する三巴(巴東・巴西・巴郡)の力が弱まります。
これは蜀の手脚がもぎ取られるのに等しいことです」と劉備に進言をし、対応を促しました。
劉備はこの意見を取り上げ、黄権を護軍に任命し、諸将を率いて張魯を迎えるように命じます。
しかしこの時には既に、張魯は本拠地だった南鄭に引き返し、曹操に降伏をした後でした。
この出動は空振りに終わりましたが、以後、劉備軍は黄権が提示した戦略を重視し、漢中の攻略を最優先として活動するようになります。
そして219年に、漢中の守備についていた夏侯淵を討ち取り、ついに奪取に成功します。
この結果、蜀の勢力圏が安定したものとして確立されました。
黄権は蜀が建国される上で、大きな貢献をしたのだと言えます。
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