楊洪は、劉璋や劉備に仕えた人物です。
私心を抑え、公のために尽くせる性格の持ち主で、内政や反乱への対処に活躍しました。
そして諸葛亮から相談を受けることが多く、信頼されていたことがうかがえます。
この文章では、そんな楊洪について書いています。
犍為に生まれる
楊洪は字を季休といい、益州の犍為郡、武陽県の出身でした。
劉璋の時代に官につき、諸郡の官吏を歴任します。
やがて214年に、劉備が蜀を平定すると、犍為太守になった李厳は、楊洪を功曹(人事担当)に任命しました。
功曹には地元出身の、人物鑑定眼がある者が選ばれますので、楊洪がそのような評価を受けていたことがわかります。
李厳に反対し、州の役人となる
李厳はある時、郡の役所を移転させたいと考えましたが、楊洪はこれをいさめて反対し、譲ろうとしませんでした。
詳細は不明ですが、楊洪の性格からして、この移転は公共のためにならないと、確信できる要素があったのだと思われます。
しかし李厳が受け入れなかったので、楊洪は功曹を辞職し、官から離れたいと願い出ます。
すると李厳は楊洪の能力を惜しんだようで、州に推薦したので、蜀部従事(州から派遣される統治官)に転任することになりました。
(この人事には、厄介払いという面もあったかもしれません)
諸葛亮に速やかな徴発を進言する
その後、劉備が漢中を曹操と争っている際に、成都に緊急の知らせを送り、「兵を挑発せよ」と伝えてきました。
この時、軍師将軍の地位にあり、成都を守っていた諸葛亮は、 楊洪に事の是非をたずねました。
すると楊洪は「漢中は益州の喉元にあたる地域で、存亡の分かれ目となる要所です。
もしも漢中を失えば、蜀は存立できず、家門の災いとなるでしょう。
ですので、危急の事態に対処するため、男子は戦場に向かい、女子は輸送にあたるべきです。
兵の挑発に、何をためらう必要がありましょう」と答えます。
実際のところ、漢中は益州を維持するためには必須の土地でしたので、楊洪の進言は的確なものでした。
蜀郡太守を代行し、職務を的確にこなす
ところで当時、蜀郡太守だった法正は、劉備の北征に随行しており、兵の徴発の実務に携わることはできない状況にありました。
諸葛亮はこのため、楊洪に太守を代行させるようにと上表します。
そして楊洪に任せてみると、諸事を的確に処理したので、太守が本務となりました。
それからしばらくして、楊洪は益州の治中従事(州長官の補佐役)に昇進しています。
221年にはこの官名で、劉備に皇帝になるように勧める上表文に連名しており、地位が高まっていたことがうかがえます。
黄元が反乱を起こす
劉備は蜀の皇帝の即位した後、関羽の復讐のため、呉の征討に出陣します。
しかし夷陵の戦いで大敗を喫すると、撤退して永安に滞留し、病床に伏すようになりました。
すると漢嘉太守の黄元が、かねてより諸葛亮と不仲だったので、劉備の病気が重いと知ると、郡をあげて反乱を起こします。
劉備が亡くなると諸葛亮の権限が大きくなり、それによって不仲な自分はよい地位に就けなくなるか、官を追われると恐れたのでしょう。
そして黄元は都がある蜀郡に進出し、臨邛城を焼き払います。
このとき諸葛亮は、永安に劉備の病気を見舞うために出かけており、成都は手薄になっていました。
そのため黄元は、はばかることなく反旗を翻したのです。
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