張裔が問題を起こす
張裔は司塩校尉の岑述と不仲になり、やがて仇敵とも呼ばれるほどの険悪な関係になります。
司塩校尉は、特産品である塩や鉄を管理し、蜀の財政に寄与する重要な役職で、留守政府を預かる張裔が、その岑述との関係を悪化させるのは、職務上、おおいに問題のある行動でした。
このために諸葛亮は、張裔に手紙を送って諭しています。
「君が昔、陌下で張飛と戦い、その陣営が壊滅したときには、私は大変に心配で、食べ物の味もわからないほどだった。
(張裔は劉備が益州を攻撃した際に、劉璋の配下として防衛にあたり、張飛に敗北していました)
また後に、君が呉に送られ、その地を流浪していたときには、君のために悲しみ、ろくに眠ることもできなかった。
君が帰国すると、重要な任務を預け、ともに王室をお助けしてきた。
君との間には、昔から言われるような、金石のように堅い友情があると、私は思っている。
金石のように堅い友情の間柄においては、仇敵でさえも推挙して利益をもたらし、たとえ骨肉の間を裂くことがあろうとも、正しい判断を下し、互いに譲りあい、願いを断るようなことはしないものだ。
ましてや、私はただ元倹(岑述)に期待をかけただけだ。
そのくらいのことも、君は我慢することができないのか」
このようにして諸葛亮は張裔を責めましたが、結局は楊洪の言うとおり、張裔は私的な感情を公務に持ち込んでしまっており、留府長史には、適さない人格の持ち主だったでした。
このことを知った人々は、「張裔は公平でない」と評した楊洪には、私心がなかったことを知ったのでした。
楊洪が素早く出世したことで、諸葛亮が称賛される
楊洪は学問を好まない性格でしたが、忠義と清廉さを備え、そのうえ明晰な頭脳の持ち主でした。
そして自分の家の問題を憂えるようにして、公の事を憂えることができ、真摯に公務に取り組んでいます。
また、継母に仕え、孝行の限りを尽くしてもいました。
儒教を学んだわけではないようですが、そのような、公人たるに適した人格を、楊洪は備えていたのです。
はじめ、楊洪は李厳の功曹でしたが、李厳がまだ犍為太守の地位にあるうちに、同格の蜀郡太守に出世しました。
また、楊洪は門下書佐(書記)に何祇を登用しましたが、彼には才と能力があったので、郡吏に推薦します。
すると何祇は数年後に、広漢太守に昇進しました。
この時に楊洪は蜀郡太守のままであり、何祇は同格になったのです。
これは、それだけ蜀が有能な人材を見いだすと、素早く出世させていたことを表しています。
こういった人事を行ったのは諸葛亮でしたので、蜀の人々はみな、この時代の人物の能力を十分に引き出したと、諸葛亮を称賛しました。
なお、楊洪は北伐が始まった228年に亡くなっています。
楊洪評
三国志の著者・陳寿は「楊洪は忠実公正な心を持っていた。記録に値する人物である」と短く評しています。
また、『季漢輔臣賛』では「楊洪は忠義を備えた人物で、心を奮い立たせ、身を引き締めて内外の職務を果たした。公務を念頭に置き、私心を忘れた」と評しています。
いずれにしても、公のために尽くすことができる人物だったことが称賛されています。