反乱に対処する
この時、成都に残っていた楊洪は、すぐさま劉禅に言上をし、親衛隊を派遣して、将軍の陳忽や鄭綽に、黄元を討伐させることにします。
人々は、黄元は成都を包囲できなければ、必ず越巂を経て南中(益州南部)に移り、そこを根拠地にするに違いない、と意見を述べました。
南中は異民族が多く、元より反乱が起きやすい土地だったからです。
これに対し、楊洪は反論しました。
「黄元は性格が凶暴で、人々に恩徳をほどこしているわけではありません。
そんな彼に、どうして根拠地を得ることができましょう。
せいぜいが、流れに乗って東に下り、幸いにも主上(劉備)がお元気であれば、自分から手を後ろに縛って降伏し、もしも不幸(劉備の死)があれば、呉に出奔して活路を求めるだけです。
ですので陳忽や鄭綽に命じ、南安峡の入口を封鎖するだけで、黄元を捕らえることができます」
この話から、南安峡は黄元の拠点の東側にあり、退路を抑える地点だったのだと思われます。
陳忽や鄭綽が楊洪の言葉通りにすると、果たして黄元を捕縛することができました。
楊洪はこのように、物事の先行きを見通す能力が秀でていました。
この功績によって、楊洪は223年に関内候の爵位を賜り、再び蜀郡太守となっています。
また、忠節将軍の官位も加えられ、後に越騎校尉となり、太守の職務も以前どおりに担当しました。
張裔の人事に意見を述べる
227年になると、諸葛亮は魏を征討するため、漢中に駐屯することになります。
その際に、腹心の張裔を留府長史(留守政府の副官)に任命し、都を留守にする間の政務を任せようとしました。
楊洪は張裔の友人でしたので、この人事の是非について、諸葛亮からたずねられます。
すると楊洪は、次のように答えました。
「張裔は天性明敏で、優れた判断力を備えており、激務を難なくこなすことができますので、長史の任に堪えうる才能を持っています。
しかしながらその人格には、公平ではないところがありますので、彼一人に任せきってしまうのは、よろしくないでしょう。
一方で向朗は裏表が少ないので、張裔を彼の下におき、目配りをしつつ能力を発揮させれば、一挙両得になります」
張裔との関係
楊洪と張裔は若い頃から親しかったのですが、ある事件によって、その友情にひびが入っていました。
張裔は、益州の南方で反乱を起こした雍闓に捕縛され、呉に追放されていたことがありました。
その時期に楊洪は、張裔の郷里である蜀郡の太守に赴任しています。
そこでは張裔の子・張郁が役人として仕え、働いていたのですが、ささいな過失を犯し、それによって処罰される事態となります。
この時に上司である楊洪が、お目こぼしをして処罰を軽減してやらなかったので、張裔は後に帰国してからこの事件を知ると、楊洪を恨むようになります。
このことからも、張裔は公平さを重視する人柄ではなく、私的な友情の方を大事に考えていたことがわかります。
張裔に告げると反発される
こうした経緯があったのですが、楊洪は諸葛亮と話した後で、張裔の元を訪れました。
そして諸葛亮に対して話した内容を、詳細に張裔に説明します。
すると張裔は、次のように答えました。
「公(諸葛亮)はこのまま留守をわしに任されるだろう。君が何を言おうとも、それを止めることはできないぞ」
疑いをかけられる
この話を聞いた当時の人々の中には、楊洪のことをあれこれと詮索する者がいました。
楊洪は内心では、自分が長史になりたがっているから、張裔がその任に着くのを邪魔しようとした。
あるいは、張裔に嫌われていることを知っているので、彼が要職について留守政府を預かるのを望まなかったのではないか、などとも疑われます。
しかし後に、張裔のふるまいによって、そのような疑いは晴れることになりました。
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