陳矯 曹操に高く評価され、曹丕の即位を押し進めた魏の重臣

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陳矯ちんきょうは明晰さと果断さを備えた魏の臣下です。

曹操に高く評価され、曹丕が曹操の後を継ぐに際し、手早く対応することで、国家が分裂する危機を回避しました。

このために重臣となり、二代皇帝の曹えいに対してもその誤りを指摘し、率直に意見を述べ、尊重されました。

この文章ではそんな陳矯について書いています。

広陵に生まれる

陳矯はあざな季弼きひつといい、徐州の広陵郡東陽県の出身です。

乱を避けて江東や東城などに移住しました。

そして孫策と袁術から任命を受けましたが、辞退して本郡に戻っています。

陳登に仕える

やがて太守の陳登に請われて功曹こうそう(人事官)となり、許都に使いをすることになりました。

陳登は「許で行われている議論において、わしへの評価はかんばしくないようだ。
足下は様子を観察し、帰ってから実態を教えてくれ」と告げます。

陳矯は帰還すると、次のように言いました。

「様々な場所での議論を聞いたところ、明府とのは驕り高ぶり、得意になっていると思われているようです」

陳登は言いました。

「夫婦の仲がむつまじく、徳を備えて品行が整っている点において、わしは陳紀ちんき兄弟を尊敬している。

清廉で礼法を心得ている点において、わしは華歆かきんを尊敬している。

品性がよく悪を憎む心があり、見識と義心を備えている点において、わしは趙昱ちょういくを尊敬している。

博識で見聞が広く、記憶力が優れ、卓抜した能力を備えている点において、わしは孔融を尊敬している。

傑出した雄姿があり、王覇の計略を備えている点において、わしは劉備を尊敬している。

これほどに人を尊敬しているというのに、どうして驕り高ぶることがあろう。

それ以外の者たちは大したことがなく、どうして気にかけるに足ろうか」

陳登は一部の優れた人のことだけを認め、他の人を軽んじていたために、驕慢だと思われていたようですが、当人はそのことが理解できなかったようです。

陳登はこのような気持ちを抱いていましたが、陳矯を深く敬い、友人として接しました。

曹操に救援を求める

やがて広陵郡が孫権の攻撃を受け、匡奇きょうきにおいて包囲されます。

陳登は陳矯に命じ、曹操に救援を求めさせました。

陳矯は曹操に会うと、次のように言います。

「我が郡は小さいと言えども、地勢上の利便性が高い国です。

もし救援をいただき、外藩になされば、呉人は謀をくじかれ、徐州は永く安定し、武名は遠方にも響き渡り、仁愛が流れ出すでしょう。

そうすればいまだ従属していない国は、その様子を仰ぎ見て、影のように慕ってきます。

そして徳が高められ、威光が養われます。

これこそが王業です」

これを聞いた曹操は陳矯のことを高く評価し、都に留めたいと考えました。

陳矯は「本国が倒れようとしているので、奔走して急を告げに参りました。

申胥しんしょの功績がなくとも、弘演こうえんの義を忘れることはできません」と返答します。

申胥は救援要請に成功した古代の人で、弘演は失敗したものの、主君に殉死して忠義を示した人物です。

曹操はこれを受け、救援を派遣しました。

やがて呉軍が撤退すると、陳登は多数の伏兵を設け、兵を指揮して追撃をかけ、呉軍をおおいに撃破します。

曹操に招聘される

後に曹操は陳矯を招聘し、司空掾属えんぞく(大臣属官)に任命します。

そして相の令、征南長史、ほう城や楽陵の太守、魏郡西部都尉などを歴任しました。

ある時、曲周きょくしゅうの民の父親が病気になった際に、その子が牛をいけにえに捧げ、祈祷します。

県は法をたてに、この子を処刑しようとしました。

すると陳矯は「孝行な子供である」と評価して、上表して赦免しました。

未決の裁判を処理する

陳矯は魏郡の太守に転任しましたが、この時、牢獄につながれ、数年を経ても判決がくだされない囚人が千人以上もいました。

陳矯は「周に三典の制度があり、漢は三章の法を約束した。
いま刑の軽重を適切に用いるという理のために、久しく抑留し続けるという患いが放置されている。
これは誤りである」と述べました。

そして自ら罪状を調べ、一時に判決を下して未決囚を処理しています。

このように陳矯は建前にとらわれず、現実的に物事を処理していく見識があったのでした。

曹操の側近になる

大軍が東征を行うと、中央に移って丞相長史(首相の副官)になります。

軍が帰還すると、また魏郡太守となり、西曹属に転任しました。

そして漢中を征伐した際につき従い、帰還すると尚書(政務官)になります。

このように、遠征が行われる際には曹操に随行し、帰還すると政務に戻る、という扱いを受けています。

曹操にとって側に置いておきたい人物であったことがうかがえます。

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曹操にかばわれる

陳矯はもともと劉氏の出身で、家を出て叔父の家を継いだために、陳姓になっていました。

その後で一族の劉氏の娘と結婚したのですが、当時、同姓同士では結婚してはならないとする慣習があり、それに反したことは過失ではないかと、朝廷で批判されます。

曹操は陳矯の才能を評価していたので、擁護してその立場を守りました。

「乱が発生して以来、風俗や教化は衰退した。
人を非難し、それを元に評価をしてはならない。
建安五年(200年)より以前のことは問題にするな。
過去のことを掘り返して人を断罪しようとする者は、それを罪として処罰する」

このように曹操が述べたことで、陳矯は朝廷にとどまることができました。

曹操の死に際し、迅速な即位を主張する

その後、行列が前進し、魏国の都であるぎょうに到着する以前に、魏王になっていた曹操は洛陽らくようで亡くなりました。

群臣たちは慣例に従い、太子(曹丕)が魏王に即位するのは、皇帝の勅命があってからにするべきだと述べます。

陳矯はこれに対し「王は外で亡くなり、天下は恐怖しています。
太子は喪を中断して即位され、遠近の望みをつなぐべきです。
また、寵愛を受けていたみ子(曹しょう)が側におりますので、み子たちの間で変事が起きれば、国家が危うくなります」と主張しました。

かねてより、曹彰は弟の曹植こそが曹操の後継者にふさわしいと考えており、曹丕とは不仲でした。

そういった背景があったので、陳矯はなるべく早く、曹丕が魏王になり、曹操の後継者の地位を固めるべきだと考えたのでした。

陳矯はすぐに即位に必要な官と儀礼を整え、一日のうちに全ての準備を終えてしまいます。

翌朝、王后の命令をもって曹丕を即位させ、多くの大赦を実施しました。

これを受け、曹丕は「陳矯は大事に臨み、人よりも秀でた明晰さと才略を発揮した。
まことにこの時代における俊傑である」と高く評価します。

曹丕が魏の皇帝になると、陳矯は吏部(人事部)に転任しました。

そして高陵亭侯の爵位を与えられ、尚書令(政務長官)に昇進します。

曹叡に率直に接する

曹叡が二代皇帝に即位すると、東郷候に昇進し、領地は六百戸になりました。

ある時、皇帝の車が尚書門を訪れたことがありました。

陳矯はひざまずき、曹叡に「陛下はどのような御用でおいでになったのでしょうか?」とたずねます。

曹叡は「文書を調べてまわるつもりだ」と答えました。

陳矯は次のように述べます。

「これは臣の職分で、陛下が自ら臨まれるべきことではありません。
もし臣がこの職にふさわしくないとお考えでしたら、免職にしてください。
陛下はお帰りくださいますように」

すると曹叡は恥じ入り、車を返して戻りました。

陳矯はこのように明瞭で、かつ率直な人物でした。

司馬懿への意見

ある時、陳矯は曹叡から「司馬懿は忠義があり公正で、国家を担う臣下だと言えるだろうか?」と問われたことがありました。

陳矯はこれに対し「朝廷の望みを集めてはいますが、国家となるとまだわかりません」と答えます。

結果からすると、司馬懿は国家を担う臣下ではなく、国家を奪った臣下ですので、陳矯の見方は正しかったと言えます。

やがて亡くなる

陳矯は侍中光禄大夫こうろくたいふの官を加えられ、司徒(大臣)にまでなります。

景初元年(237年)に亡くなり、貞侯とおくりなされました。

子の陳本が後を継ぎ、太守や九卿(高官)を歴任します。

陳本は、任地にあった時には要点をおさえ、部下の能力を引き出しました。

統率の才があり、小さなことにはこだわりませんでした。

法律を読まないのに、司法官としての評判を得ており、司馬岐らよりも優れていると言われ、物事の理に精通していました。

鎮北将軍、仮節都督河北諸軍事にまで昇進しています。

亡くなると、子の陳さんが後を継ぎました。

陳本の弟の陳けんは、咸熙かんき年間に車騎将軍にまでなっています。

そして晋王朝の成立にも貢献しました。

このように、陳矯の子供たちは、軍事方面で活躍したのでした。

陳矯評

三国志の著者・陳寿は「陳矯と徐宣は剛断にして硬骨だった」と評しています。

陳矯は制度の建前に縛られず、現実に即して物事を実行する能力があり、このために重用されました。

曹操から高く評価され、曹丕の即位にも貢献したことで、魏の重臣の地位を得ることになっています。