国淵は曹操に仕え、内政面で活躍した人物です。
戦乱が起きると遼東に避難し、そこでも学問に励んだことで名声を得ました。
やがて曹操に招聘され、屯田の発展に力を尽くし、反乱の鎮圧なども行っています。
有能な上に清廉だったので、やがて大臣の位に列することにまでなりました。
この文章では、そんな国淵について書いています。
楽安に生まれる
国淵は字を子尼といい、楽安郡蓋県の出身でした。
高名な儒学者である鄭玄に師事しています。
国淵がまだ名を知られていなかったころ、鄭玄は次のように述べました。
「国子尼は優れた才能を持っている。わしが見たところ、国家を担える器量を備えている」
このように、国淵は若いころから期待を受けていた人物だったのでした。
遼東で名を知られる
その後、国淵は戦乱を避けるため、邴原や管寧といった人たちともに、遼東(北東の辺境地帯)に移住します。
邴原や管寧もまた、その人格や才能によって評価されていました。
国淵は儒学を好んでいましたが、遼東に住んでいた時に、いつも山中の岩の上で学びました。
すると士人たちの中で国淵を慕う者が多くなり、このために名を知られるようになります。
曹操に招聘される
やがて国淵は地元に戻りましたが、曹操から招聘され、司空掾属(大臣の属官)になりました。
朝廷で議論が行われる場に参加すると、いつも居住まいを正して直言を述べます。
そして退出した後には、私情を残すことはありませんでした。
こうして国淵は国政に参与するようになっていきます。
屯田を成功させる
曹操は広い地域に屯田を設置したいと思い、国淵にその事務を担当させました。
国淵はしばしば損益について述べ、土地柄をよく調べてから民を住まわせます。
そして人口を計ってから官吏を置き、功績と課題をどのように評価するかの基準を明確にしました。
それから五年のうちに、倉庫には豊かに物資が満ちるようになり、民は競って仕事にはげみ、それを楽しむようになります。
反乱軍の残党を処刑しないようにと主張する
曹操が関中を征伐した際に、国淵は居府長史に任命され、留守の間の事を統括する立場につきました。
するとやがて、田銀や蘇伯といった者たちが、河間で反乱を起こします。
田銀が打ち破られると、その残党たちはみな、法に基づいて処断されるはずでした。
国淵はこの時、首謀者ではない者たちには、刑を執行しない方がよいと主張し、曹操はこれを受け入れます。
これによって千人ほどの者たちが命を助けられました。
討ち取った首級の数を正確に申告する
賊を破った時、文書では討ち取った首の数を十倍にして申告するのが慣例になっていました。
しかし国淵は、首級の数を報告する際に、そのままの実数を記します。
曹操がどうしてそうしたのかと問うと、次のように答えました。
「外部の侵略者を征討し、斬った者の数を多くしますのは、それによって武功を大きくし、民へ知らしめ、誇示するためです。
河間は領土の内側にあり、そこで田銀らは反逆を起こしました。
これを討って功績を立てましても、私は密かにそれを恥だと感じているからです」
領域内で反乱を起こされるのは、統治に問題があったからだと見ることができますし、統治すべき民を討つことにもなります。
ゆえに、国淵は国内の反乱を討ったことを誇るべきではないと考え、首謀者以外の命は救うべきだと考えたのでしょう。
曹操はこれを聞くと大いに喜び、国淵を魏郡太守に昇進させました。
誹謗者を探索する
このころ、投書して匿名で政治を誹謗する者がいました。
曹操はこのことを気に病み、誰がやったのかを知りたがります。
国淵はその文書を手元に置き、公開しないようにと要請しました。
その文書には、『二京の賦』という韻文が多く引用されていました。
国淵は功曹(人事官)に対し「この郡は大きくなり、天子の御車がおられるが、学問のある者は少ない。だから理解力のある少年を、師につかせたい」と命じます。
功曹は三人の若者を選び、国淵は引見しました。
そして「まだ学んでいないと思うが、『二京の賦』は広く物事を学ぶのに適した書だ。世の者たちはこれを粗略に扱っており、師となれる者は少ない。読める者を求め、教えを受けよ」と告げます。
また、何のためにそれをするのか、密かに申し付けておきます。
十日ほどして、読める者が見つかり、若者たちは出かけ、授業を受けました。
役人がその教師に頼み、文書を書かせます。
そして誹謗の文章と比較してみると、果たして筆跡が同じでした。
捕まえて尋問すると、犯人であることがわかります。
こうして国淵は知恵を用い、事件を速やかに解説したのでした。
やがて亡くなる
国淵はやがて、太僕(皇帝の車馬の管轄官)に昇進します。
大臣の位に列したものの、着るものや食べ物は質素で、俸禄や下賜品はみな旧友や親族に分け与えました。
謙虚と節制を主義として守り、やがて在官中に亡くなっています。
国淵評
三国志の著者・陳寿は国淵を次のように評しています。
「袁渙・邴原・張範らは清廉で、進退が道義にかなっていた。涼茂や国淵は彼らに次ぐ人物である」
国淵は屯田を成功に導き、領域内で反乱が起きた際には過剰な罰を戒めるなど、優れた統治能力の持ち主だったと言えます。
それでいて清廉でもあり、能力、人格ともに秀でていたので、曹操から重用されました。