許靖は蜀に仕えた文官です。
人物鑑定を得意としており、朝廷の人事官や、各地の太守を歴任しました。
董卓が台頭してからは各地を放浪し、蛮族が多い交州に逃げたことで、辛酸をなめることになります。
後に、その名声によって劉備に尊重され、蜀の司徒(大臣)に就任しました。
ときおり失態を見せることもありましたが、「全体としては国政を担える人材である」と評されています。
この文章では、そんな許靖について書いています。
汝南に生まれる
許靖は字を文休といい、豫州の汝南郡、平輿県の出身でした。
生年は不明となっています。
若い頃、従弟の許劭とともに名を知られ、両者とも人物鑑定の能力によって評判となります。
しかし許靖と許劭は、仲がよくありませんでした。
許劭は郡の功曹となり、有望な人材を採用する地位につきます。
しかし許靖を排除して取り立てなかったので、許靖は馬磨きの仕事をして生計を立てました。
このようにして、許靖は従弟から嫌がらせを受け、なかなか世に出ることができないでいたのでした。
劉翊に推挙され、董卓と関わる
しかし、劉翊が汝南郡の太守になると、許靖を計吏に推挙し、ついで孝廉(中央に地方の優れた人物を取り立てる制度)にも推薦されます。
すると許靖は尚書郎(政務官)に登用され、官吏を選抜する仕事をしました。
やがて189年になると霊帝が崩じ、抗争の結果、董卓が実権を掌握します。
すると董卓は漢陽の周毖を吏部尚書に任じ、許靖と協議をして、天下の士人の人事を担当するように命じています。
人事の刷新を進める
許靖と周毖は、汚職官吏を追放し、世に知られていない優れた人物を見いだし、昇進が遅れている者たちを抜擢しました。
潁川の荀爽(荀彧の叔父)、韓融、陳紀らを昇進させ、公・卿・郡守に取り立てます。
そして尚書の韓馥を冀州牧(長官)に、侍中の劉岱を兗州刺史に、潁川の張咨を南陽太守に、陳留の孔伷を豫州刺史に、東郡の張邈を陳留太守にしました。
これと同時に許靖が巴郡太守に転任しそうなりましたが、これに就任せず、御史中丞(官吏の監察官)となっています。
反董卓連合が結成される
董卓は都で暴政を行い、諸侯たちに敵視されるようになりました。
やがて袁紹が中心となって挙兵をすると、許靖が任命した韓馥らは、みなこの反董卓連合に参加してしまいます。
このために董卓は怒り、周毖に向かって言いました。
「諸君が優れた人物を抜擢し、起用すべきだと言うから、わしはその意見に従い、天下の人々が欲するところに背くまいと思った。
それなのに諸君が起用した者たちは、任地に赴くや、すぐに引き返してわしを滅ぼそうとしている。
わしがどうしてこのような目にあわなければならないのだ」
そして周毖を叱りつけ、外に引きずり出させて斬刑に処しています。
許靖は出奔する
許靖の従兄である陳国の相(統治官)・許瑒は孔伷に協力し、反董卓連合に参加していました。
このため、許靖は処刑されることを恐れ、つてをたどって孔伷のところに出奔します。
許靖は後に上表し、この時の自分の行動の理由を説明しています。
「逆賊の仲間となって生を望むのは、忍耐できないことです。
官職に執着して自分の身を危うくするのは、それで死んでも道義を成したことにはなりません。
心中で念じていますのは、古人が危機に臨んで自ら常道から離れ、非常の手段を用いて志を成し遂げたことです」
各地を転々とする
孔伷を頼ったものの、やがて彼は死去し、ついで楊州刺史の陳禕の元を訪れます。
しかし今度は陳禕も死去してしまいます。
このため、昔なじみである呉郡都尉の許貢と、会稽太守の王郎の元に身を寄せました。
許靖は呉にひとまず身を落ち着けると、親類や郷里の人々を引き取って慈しみ、紀律を立てて生活の面倒をみます。
このように、許靖は仁愛を備えた人物だったのでした。
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