王商への推薦を受ける
南陽の宋仲子は荊州にいましたが、許靖が蜀に入ったと知ると、劉璋配下・蜀郡太守の王商に対し、手紙を送りました。
「文休(許靖)は大変に優れた、貴重な人材です。
当世の役に立つ能力を持っていますので、あなたは彼を指南役にするとよいでしょう」
このように、許靖は南方を長年さまよっていましたが、その評判は高いままだったようです。
ちなみにこの王商について、許靖は「中原に生まれていたならば、王郎であっても彼の上にはいくまい」と評しており、こちらも優れた人物だったようです。
王商が211年に亡くなったので、許靖は代わって蜀郡太守となりました。
人材を見いだす
許靖は蜀に入ってからも人物を見いだすことに努めており、「張裔は実務の才能があって、頭の回転が速い。鍾繇(魏の重臣)に似ている」と評しています。
この張裔は、後に諸葛亮の長史(副官)を務めるほどに立身しており、許靖の人物鑑定の目は確かだったようです。
許靖のそのような性質が知れわたったのか、優れた人物の推薦を受けるようにもなっており、蜀の人材を充実させることにも貢献しています。
曹操の企みを察知する
212年になると、漢王朝は皇子・熙を済陰王に、懿を山陽王に、敦を東海王にたてました。
許靖はそれを聞いて、次のように述べます。
「『老子』には『何かを縮めようとすれば、必ずそれを一度大きくし、何かを奪い取ろうとすれば、必ず一度それを与える』と書かれている。
これは孟徳(曹操)のことであろう」
許靖は、曹操が皇子たちをいったん王に封じ、漢王室をもり立てると見せかけた上で、いずれ王室を弱らせるつもりなのだろうと察知したのでした。
事実、曹操は214年に伏皇后を処刑し、かわりに娘を皇后にして、さらに権力を強めています。
そして220年には曹操の子・曹丕が漢王朝から帝位を奪い取りました。
成都から逃げだそうとする
214年になると、蜀に入って劉璋を攻撃していた劉備が、ついに成都に迫ってきます。
許靖はこの時、成都にいたのですが、怖れをなし、城壁を乗り越えて劉備に投降しようとしました。
しかし事が発覚したため、果たせませんでした。
本来なら重罪に問われる行為ですが、目前に危機が迫っていましたので、許靖は処刑されずにすんでいます。
許靖は董卓の元から逃げ、孫策が迫って来た時も逃げましたが、臆病なところがあったのは確かなようです。
法正の進言によって起用される
この事件があったため、劉璋が降伏した後、劉備は許靖を軽んじて起用しませんでした。
これに対し、劉備の参謀である法正が進言をします。
「天下には虚名を得ながら実体が伴わない者がおり、許靖がそれにあたります。
しかしながら、現在ご主君は大業を始められたばかりで、許靖を起用しない理由を、天下の人々に説明して回るわけにもいきません。
許靖の虚名は四海(国中)のうちに広がっており、もし礼遇をなさらなければ、天下の人々はこのために、ご主君が賢者をないがしろにしたと思うでしょう。
敬意をもって丁重に扱われ、それによって世間の目をくらまされるのがよいと思います」
許靖には欠点もあったものの、ここまで言われるほど実体のない人物ではありませんでしたが、いずれにせよ、過去に築いた名声によって、蜀の重臣として処遇されることになりました。
こうした経緯によって、許靖は左将軍長史(劉備の副官)になっています。
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