交州に逃亡する
しかしここでも長く滞在することはできず、今度は孫策が長江を渡り、呉郡や会稽に侵攻してきます。
このため、許靖は難を逃れるために、漢の最南端の地である交州へと逃走しました。
許靖は岸辺に座り、一緒についてきた者たちを先に船に乗せ、親類もそうでない者も、全員が出発してから、最後に岸を離れます。
その様子を見た者たちは、許靖の立派なふるまいに感嘆しました。
称賛を受ける
許靖たちが交州に入ると、交阯太守の士燮が敬意をもって接してきて、手厚く待遇されます。
この頃、陳国の袁徽が交州に身を寄せていましたが、尚書令(政務長官)の荀彧に、手紙を送って述べました。
「許文休(許靖)は優れた才能を備えた立派な人物で、計画を立てるのが得意で、充分に知略を備えています。
故郷を離れ、多くの士人と一緒に行動していましたが、危険にみまわれた際には、いつも他人のことを優先し、自分のことを後まわしにしています。
そして九族(複数の世代にわたる親族)に及ぶ同族や、それ以外の者たちとも、飢えや寒さをともにしていました。
仲間たちに対する規律には、仁愛といたわりがあり、よく効果をあげています。
こうしたことをたくさん行っており、すべてを並べ立てるのは不可能なほどです」
これによって、許靖の名声が高まっていきました。
圧迫を受ける
やがて鉅鹿郡の張翔が、王命を受けて交州に使者としてやって来ます。
そして権力にものを言わせて許靖を招き、無理やりに忠誠を誓わせようとしました。
許靖はこれを拒み、張翔に従うことはありませんでした。
曹操に手紙を送る
この後で、許靖は曹操に手紙を送って述べています。
「世に野蛮な者たちが横行するようになり、災禍が引き起こされています。
臆病な私は命を惜しみ、自ら異民族の中に逃げかくれ、もう十年もご無沙汰しています。
そして吉凶の礼も無視してまいりました。
昔、会稽におりました頃、お手紙をいただき、親密なお言葉をいただいたことがありましたが、その時のお話を、いまでも忘れていません。
袁術が勅命をくつがえして人々を迫害し、反逆者たちを扇動したので、川や道路がすべてふさがれてしまいました。
このため、北の地に思いをかけ、そちらに行こうと思っても、手段がない状態でした。
正礼(劉繇)の軍が退却し、袁術の軍(孫策)がやってきたために、会稽はくつがえり、景興(王郎)は拠点を失い、三江五湖の地はすべて敵の支配下に置かれてしまいました。
その時には困り果てていたものの、訴えられる相手もいません。
そこで袁沛や鄧子考らと滄海を渡り、南の交州へ参ったのです。
そして東甌と閩、越の国を経て、万里の道を通過すると、漢の地は見られなくなりました。
風と波にただよい、食糧がつきて草を食べましたが、餓死する者が増え、多くの者が命を落としました。
南海を渡り終え、領主の兒孝徳と出会った頃、足下(曹操)が忠義の心を奮い立たせ、兵器を整え、西方に進んで天子(献帝)を迎えられ、中嶽(嵩山)を巡行なさったと聞きました。
この知らせを受け、悲喜がこもごもに浮かび上がり、すぐに袁沛や徐元賢とともに再び旅装を整え、北上して荊州に向かうつもりでした。
しかし、蒼梧の諸県にいる蛮族たちが反乱を起こしたので、州の役所が陥落し、道路が途絶えてしまいました。
そして徐元賢が殺害され、老いた者や弱い者が、おおぜい殺されてしまいました。
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