龐統士元 諸葛亮と並び称され、鳳雛と呼ばれた名軍師の生涯

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龐統ほうとうは劉備に仕えて活躍した、いわゆる軍師です。

諸葛亮と並び称され、「鳳雛ほうすう鳳凰ほうおうひな)」と呼ばれていたことでも知られています。

計略を考案するのを得意としていましたが、人物鑑定にも優れており、幅広い人脈を持っていました。

劉備に益州奪取を強く勧め、蜀が建国される上で、重要な役割を果たしています。

しかし攻略戦の最中に戦死してしまい、その才能を十分に発揮しきることはできませんでした。

この文章では、そんな龐統の生涯を書いています。

襄陽に生まれる

龐統は字を士元といい、荊州襄陽じょうよう郡の出身でした。

179年に誕生しています。

若い頃は地味で、もっさりとした外見をしていたので、なかなかその才能を評価されませんでした。

しかし龐統は、叔父の龐徳ほうとくにだけは高く評価されています。

龐徳は甥を世に出してやろうと思い、龐統が二十歳の時に、頴川えいせんに住む司馬徽しばきを訪ねさせました。

司馬徽に高く評価される

司馬徽は清廉かつ温雅な人柄で、人物を鑑定する能力が高いと、世間から評価されていました。

龐統がその家を訪ねると、司馬徽は桑の木に登って葉を摘んでいました。

このため、司馬徽は龐統を木の下に座らせ、語り合うことにします。

すると話が盛り上がったようで、話し始めたのは昼だったのに、いつの間にか夜になっていたほどでした。

司馬徽は龐統と話を終えると、彼を非常に高く評価し、「南州の士人の中で、最も優れた人物になるだろう」と称えました。

これをきっかけとして、龐統は世間に名を知られるようになっていきます。

鳳雛と称される

龐統は「鳳雛」という異名で呼ばれていました。

これは「鳳凰の雛」を意味し、「将来優れた人物になることが期待される人」という意味です。

他には諸葛亮が「臥龍がりょう(眠っている龍)」、司馬徽は「水鏡すいきょう」と評されましたが、これらはいずれも龐統の叔父、龐徳が名づけたものです。

龐徳もまた人を見る目が優れており、司馬徽から兄事されていました。

龐統や諸葛亮は、このような荊州の人士のつながりの中から、世に出てきた人物なのだと言えます。

功曹となり、人材の育成に励む

やがて龐統は襄陽郡の功曹こうそうとなり、人材の評価と育成に取り組みます。

(功曹とは、役人の任免や賞罰を司る役目で、地元の出身者が任命されました)

龐統もまた、叔父や司馬徽と同じく人物評価を好み、人材の育成にも熱心でした。

しかし龐統が人を褒める場合、その人の実力以上に評価することが多かったので、不審に思う者が出てきました。

その人に、どうして過剰評価をするのかと尋ねられると、龐統は次のように答えます。

「いま天下はおおいに乱れ、正しい道は衰えている。

このために善人が減って悪人が増えた。

このような時代に道徳を盛んにしようとするのなら、大げさに褒めてやらなければ、名誉を求める者も現れない。

そして求められなければ、善事を行う者も現れないだろう。

もし十人を抜擢して、五人が失敗したとしても、残る半分がものになればよい。

称賛して用いてみることで、はじめて世の教化を進め、志のある者に努力をさせることができる。

だからこのやり方も、よいものだと思わぬか?」

このように、龐統は世の現実を見すえた上で、人物の評価と、能力の開発を行っていたのでした。

まことに賢人だったのだと言えます。

荊州が動乱に見まわれる

その後、208年になると、荊州は大きな動乱に見まわれました。

それまでは劉表が荊州を安定して統治していたのですが、この年に彼が亡くなったためです。

すると曹操が大軍を動員し、荊州を制圧するために攻めこんで来ました。

劉表の後継者の劉琮りゅうそうは、すぐに降伏を決断したので、荊州はひとまず曹操のものになります。

しかしその後、劉備と孫権が同盟を結んで抵抗し、曹操と赤壁せきへきで戦って勝利しました。

この結果、荊州は北を曹操が、南を劉備と孫権が抑えることになります。

龐統はこの流れの中に巻き込まれ、その運命が大きく変わっていくことになったのでした。

なお三国志演義では、龐統は赤壁の戦いの際に、連環れんかんの計(曹操に船をつなぎ合わさせ、火計をしかけやすくする計略)を提案したことになっており、ここから登場しています。

呉におもむく

呉の重臣・周瑜は、劉備が荊州南部を支配するのを援助し、そのまま荊州の南郡太守になっていました。

しかし戦場で受けた傷が元で、210年に死去しています。

龐統はこの時、周瑜の遺骸を送り届けるために、呉に向かいました。

この頃の呉では、龐統の名はよく知られるようになっています。

なので龐統が任務を終えて荊州に帰ろうとすると、陸績りくせき顧劭こしょう全琮ぜんそうといった呉の有望な若者たちが訪ねてきて、龐統と交流を持ちました。

龐統は「陸積君は駑馬どばながらも早足の能力を持っていると言えるでしょう。

そして顧劭君は鈍牛どんぎゅうながら、重荷を背負って遠くまで行くことができるでしょう」と評しました。

人を駑馬(にぶい馬)や鈍牛に例えるあたり、龐統の人物評は、なかなか遠慮のないものだったようです。

これを直接言えるほど、彼らと親しくなっていたのでしょう。

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