龐統士元 諸葛亮と並び称され、鳳雛と呼ばれた名軍師の生涯

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龐統の評価の的確さ

これを聞いたある人が「あなたは、陸績の方が優れていると評したのでしょうか?」と龐統にたずねます。

すると龐統は「駑馬はどれだけ優秀でも、ひとりだけしか運べません。

一方で鈍牛は一日に三百里を行くだけですが、たくさんの人を運ぶことができます」と答え、顧劭の方を高く評価していることを示しました。

陸積と顧劭のその後

陸積は陸遜の叔父で、その博学多才ぶりから、その名声は、一時は陸遜にも勝っていたほどでした。

やがて孫権に招かれて官位につきましたが、人の気持ちをはばからずに物を言う性格だったので、煙たがられるようになります。

そして中央から遠ざけられ、辺境の武官に左遷されたので、辞職しました。

陸積は若くして引退すると、以後は学者として研究活動に専念し、表舞台に出ることはありませんでした。

一方で顧劭は、27才で豫章よしょう太守になると、学問を奨励して優秀な人材を育成します。

そして公正な統治を行ったために、住民たちは教化されていきました。

この結果として、豫章の治安が改善され、住民の質も向上します。

陸績は優秀だったものの、その才能は個人の範囲内でしか発揮されず、顧劭は逆に、多くの人々に影響を及ぼす存在になったのでした。

龐統が評した通りの結果となり、彼の人物鑑定が的確だったことがわかります。

龐統の自己評価

顧劭はある時、龐統の宿を訪ねて語り合いました。

すると顧劭は「あなたは人物鑑定に優れていることで有名ですが、私とあなたではどちらが優れているでしょうか?」とたずねました。

龐統は「世俗を教化し、人物の優劣を判断する点では、私はあなたに及びません。

しかし帝王の取るべき秘策を考え、人間の変転する運命の要を掌握する点においては、私の方に一日の長があるようです」と答えました。

これを聞いた顧劭はもっともだと思い、龐統との親交を深めます。

この発言から見るに、龐統は「帝王に仕えて才能を発揮したい」という希望を持っていたようです。

そして龐統は劉備に仕えることで、彼が皇帝になる道を開くことになります。

劉備に仕えるも、免官となる

龐統は劉備が荊州南部を支配するようになると、彼に仕えるようになりました。

しかし当初はろくに話もできず、適当に扱われます。

劉備はこの時点では、龐統の人物も才能も知らなかったのでした。

ここでもおそらく、龐統の冴えない外見が災いしたのだと思われます。

劉備はひとまず、龐統を従事(副官)の地位に置いたままで、耒陽らいよう県の長官を代行させました。

しかし龐統はなんら治績をあげなかったため、劉備は龐統を免官にしています。

友人たちのとりなしを受ける

すると呉の魯粛ろしゅくが劉備に書状を送り、「龐士元は、たかだか県を治めるのがふさわしいような、小さな男ではありません。

治中ちちゅう別駕べつが(州長官の側近)に任命して初めて、その才能を発揮できる人物です」と伝えました。

龐統の才能を知る諸葛亮もまた、劉備にとりなしたので、劉備は龐統とよく話してみることにします。

そして龐統と時間をかけて語り合うと、劉備もその才能を理解し、改めて治中従事に任命しました。

司馬徽と長く語り合ってはじめて才能を認められたように、龐統は時間をかけてつきあってみないと、その才能が伝わりにくい人物だったようです。

以後、劉備は諸葛亮に次ぐほどの親愛の情を、龐統にかけるようになります。

龐統はやがて、諸葛亮と並んで軍師中郎将ちゅうろうしょう(上級部隊長)となり、軍権をも与えられました。

こうして龐統は友人たちの支援によって、劉備の重臣の立場を獲得したのでした。

劉備に張松と法正が接近する

この頃、荊州の西隣の益州は、劉璋りゅうしょうが統治していました。

しかし劉璋は能力も覇気も乏しく、頻繁に反乱が発生する中で、かろうじて支配権を維持しているありさまでした。

このため、臣下の張松や法正は劉璋を見限り、劉備に益州の主になってもらいたいと望むようになります。

張松らは劉璋に曹操と手切れをさせ、劉備を頼るようにと勧めます。

劉璋はこれを受け入れ、劉備に兵士や軍需物資を援助し、益州に招くようになりました。

龐統は益州の奪取を勧める

これを好機と捉えた龐統は、劉備に次のように進言をしました。

「荊州は戦乱によって荒れ果て、優れた人物も乏しくなりました。

東方には孫権がおり、北方には曹操がいて、三国鼎立ていりつの計画もなかなか進まないでしょう。

一方、益州は富み栄え、民衆も豊かです。

人口は百万ですから、兵馬は問題なくそろえられますし、他の地域に財を求める必要もありません。

この地を拝借して、天下の大業を定めるのがよいと存じます」

すると劉備は、「劉璋から益州を奪うと、天下の信義を失うことになる」として受け入れませんでした。

すると龐統は言葉を重ねます。

「その場に応じて適した方策を取らなければならない時代に、正義一筋を貫くのは、必ずしもよいことではありません。

弱き者を併合し、暗愚の者を従えるのは、春秋の覇者の成したことです。

武力という間違った手段で益州を奪っても、文治という正しい手段で統治し、道義をもって報いればよいのです。

そして天下が定まった後、劉璋を大国に封じてやれば、信義にそむくことにはなりません。

それに、我らが奪ってしまわなければ、結局は曹操か孫権に取られてしまい、彼らが得をすることになります」

この龐統の言葉に劉備は説得され、益州を奪取すべく、行動を起こすことを決意しました。

こうして龐統は、蜀が建国されるに至る、重要な決断を劉備にさせたのでした。

龐統には王佐おうさの才(帝王を補佐する才能)があったのだと言えます。

こうして益州には龐統が随行することになり、諸葛亮は荊州を守ることになりました。

この二人がいたことで、劉備は二つの州の制覇を目指せるようになったのだと言えます。

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