尹黙は劉備や劉禅に仕えた学者です。
『左氏春秋』の研究を行い、漢代ではおろそかにされていた古文の学を修めました。
そして劉備に起用され、劉禅の側近となって学問を教授します。
また、諸葛亮から軍師に任命されており、北伐にも関わりました。
この文章では、そんな尹黙について書いています。
梓潼に生まれる
尹黙は字を思潜といい、益州の梓潼郡、涪県の出身でした。
生年は不明となっています。
三国志の時代において、益州では「今文の学」という、秦代以降の新しい文字(隷書)を用いた解釈学が尊重されていました。
このため、字句の正確な読みがおろそかにされる傾向が強まっていきます。
尹黙はそれでは学問が狭くなると考え、遠く荊州に遊学し、司馬徽や宗忠らに師事し、経書が成立した時代の文字を用いる「古文の学」を習いました。
(司馬徽は諸葛亮や龐統の存在を劉備に教えた人物ですが、優れた学者でもあったようです)
幅広く書物を読みこなし、劉備に起用される
尹黙はすべての経書と史書を読みこなし、さらに『左氏春秋』を専門的に研究します。
そして劉歆の研究書や、その他の先行する学者たちの注説に至るまで、その全てを暗誦できるほどになりました。
このため、二度とそれらの書物を調べる必要がなかったということですので、尹黙はよほどに記憶力が優れていたようです。
こうしてひとかどの学者になった尹黙は、劉備が益州を平定して牧(長官)に就任すると、勧学従事(学問の補佐官)に任命されます。
そして劉備が蜀の皇帝に即位した際には、それを勧める上奏文に連名しました。
劉禅に学問を教え、補佐役となる
やがて劉備が劉禅を太子にすると、尹黙は太子僕(太子の車馬の管轄官)となり、『春秋左氏伝』を劉禅に教授します。
そして劉禅が即位すると、諫議大夫に任命されました。
これは主君に誤りがあった場合に、それを指摘してただす役割です。
このようにして、尹黙はただ学者であっただけでなく、蜀の中枢に関わる立場についたのでした。
諸葛亮から軍祭酒に任命される
尹黙には軍事面の能力もあったようで、諸葛亮が北伐のために漢中に駐屯していた際に、要請を受けて軍祭酒(軍師)となっています。
そして234年に諸葛亮が亡くなると、成都に帰還して太中大夫(皇帝の顧問官)に任命されました。
このようにして、蜀からその学識を尊重された後、間もなく尹黙は亡くなっています。
子の尹宗がその学問を引きつぎ、博士になりました。
尹黙評
三国志の著者・陳寿は尹黙を次のように評しています。
「尹黙は『左氏伝』に精通していた。
徳行の点で称賛されることはなかったものの、一代の学者であった」
尹黙は経歴からするとなかなかの人物だったように思われますが、記録が少ないのか、伝が立てられているのに、人柄について紹介するような話は記載されていません。
それでも三国志に尹黙のことを書いたのは、益州にも優れた学者たちがいて、その水準は決して低くなかったことを示そう、とする陳寿の意図があったのかもしれません。
尹黙には司馬徽と師弟関係にありましたが、司馬徽は劉備と面識がありましたので、その関係もあって劉備に用いられたのだと思われます。
そのような学問上のつながりもまた、この時代の人の動きに影響を及ぼしていたようです。