大司農とは 三国志では梁習や司馬芝が就任

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大司農だいしのうは中国の官職です。

国家財政を担当する大臣で、前漢の時代に設置されました。

もとは治粟内史ちぞくないしという職名でしたが、紀元前104年に、武帝が大司農に改称しています。

漢武帝
【大司農の名称を定めた武帝】

穀物、金属、物産、織物などを広範に取り扱い、その管理と流通を司りました。

また、物価の統制も行っています。

そして徴税と、塩や鉄の専売も管轄しており、大きな権限を持った役職だったのだと言えます。

秩禄は中二千せきで、最高位の大臣である三公につぐ格式を持っていました。

九卿きゅうけい(九つの大臣職)のひとつでもあります。

大司農と少府

類似の官職に、皇室の財産を管理する少府がありました。

こちらは徴税と、皇帝の生活に関わる雑務を担当しています。

前漢の時代には、徴税権が複数の機関に与えられていたわけですが、前漢から禅譲を受けた新の時代に、財政が一元化されました。

この結果、大司農が中央の財政を一括して管理するようになります。

少府は財政から切り離され、皇帝の側近団としての役割が強くなっていきました。

尚書しょうしょ侍中じちゅう黄門侍郎こうもんじろうといった官職が少府に属しています)

また、地方と中央の行政が切り離され、大司農はもっぱら国家財政のみを担当するようになりました。

この時に、鉄や塩の管轄は郡県に属するようになります。

新の時代において、それまで混在していた職域が分割され、それぞれの専門性が強まったのだと言えます。

一方において、大司農の広範に渡っていた権限は、縮小されていくことにもなりました。

大司農の属官

大司農の具体的な職域を示すために、属官の役割を紹介していきます。

太倉

太倉たいそうは地方から集められた穀物を都の倉庫に貯蔵し、管理する部署です。

都で使用される穀物の出納を担当していました。

導官

導官どうかんは、元は少府に属していましたが、後漢の時代には大司農に属するようになります。

精米を担当し、皇帝が食する米や、保存食であるほしいいを用意するのが役目でした。

大司農の管轄に移動したことで、新代以降は皇帝のためだけに、特別に米を選別することがなくなったのではないかと推測されています。

廩犧

廩犧りんぎは祭祀を行う際に用いる、かりあひるといった捧げ物を調達するのがその役目でした。

平準

平準へいじゅんは地方から集めた布帛ふはくを管理し、市場で販売する部署です。

染め物も担当しており、布帛を商品化して販売し、利益をあげることを目的としていました。

漢の時代には布帛の販売を官が独占し、莫大な利益を挙げていました。

このため、平準の官吏は自らも売買に関わり、多くの収入を得ていたようです。

やがて霊帝の時代には、宦官たちがこの部署に目をつけ、自分たちを長官とする内署に権限を移させました。

そして宦官たちが利益をむさぼるようになっています。

三国志では

三国志の時代では、魏・蜀・呉のいずれにおいても大司農が設置されています。

この頃には、皇帝直属の機関である尚書に財政が移管されており、権限が縮小されています。

魏では、北方の統治に功績を挙げた梁習りょうしゅうが、中央に戻った際に就任しました。

他には内政面で活躍した司馬芝しばしも就任し、大司農が商業を取り扱うのをやめ、農業やさん業などの生産活動を重視するよう、曹えい(明帝)に進言しています。

この時代以降は、大司農は朝廷の倉庫の管理や、農業の振興、水害への対応などが主な業務となっていきました。

現代風に言えば、財務大臣から農務大臣へと役割が変貌していったことになります。

その後は名称が司農卿、大司農司といったように変化しつつ、明の時代まで存続しています。