李恢は蜀に仕え、馬超の勧誘や南方の統治に活躍した人物です。
蜀の南方は異民族が多く、反乱がたびたび発生しましたが、李恢はその鎮圧に成功し、地位を高めていきました。
異民族の成都への移住を促進し、物資を貢納させて蜀の財政を改善することにも寄与しています。
この文章では、そんな李恢について書いています。
建寧に生まれる
李恢は字を徳昂といい、益州の建寧郡、愈元県の出身でした。
郡に出仕して督郵(役人の監察官)となりましたが、やがて叔母の夫である爨習が法律に違反したため、連座して免官されそうになります。
しかし益州郡太守の董和は、爨習が有力な豪族であることを考慮して不問に処したので、李恢はそのまま留任することになりました。
このことから、李恢は建寧で勢力のある一族の出身だったことがわかります。
州に推挙され、劉備に会いに行く
しばらく後に、李恢は董和によって州の役所に推挙され、そちらに移動しようとします。
するとその頃、劉備が葭萌で挙兵し、益州を支配する劉璋への攻撃を開始しました。
李恢は道中でその話を聞くと、劉璋は必ず敗北し、劉備は成功するだろうと予想します。
このため、郡からの使者だと名のって劉備の元へ向かい、緜竹で面会をしました。
劉備に用いられ、馬超への使者を務める
劉備は李恢がやって来たことを喜び、随行させて雒城まで連れて行きます。
この頃、漢中には名高い馬超がいましたが、劉備は彼を従属させようと思い、使者の役目を李恢に任せます。
李恢は弁舌をふるい、馬超を味方に引き入れることに成功しました。
そして馬超は、劉備から借り受けた兵を引きつれて成都にまで進軍し、劉璋に降伏を決断させるのに貢献します。
こうして李恢は劉備の元で、さっそく手柄を立てたのでした。
劉備は劉璋を降して益州牧(長官)に就任すると、李恢を州の功曹書佐主簿(人事と文書の管理官)に任命しています。
讒訴されるも、かえって昇進する
それからしばらくして、逃亡をはかった者が、李恢を巻き込んで謀反を企んでいたと讒訴しました。
このため、官吏が李恢を逮捕して護送しましたが、劉備はこれが事実無根であることを証明させた上で、李恢を別駕従事(州牧の補佐官)に昇進させています。
このことから、李恢は早くも劉備から信頼を得ていたことがうかがえます。
劉備の諮問にこたえて出世する
221年になると、庲降都督(蜀南方の長官)の鄧方が死去したので、劉備は李恢に「後任は誰がよいだろうか」と質問をしました。
これに対し、李恢は次のように答えます。
「人の才能には向き不向きがあります。
なので孔子は『人を用いる場合、その人に応じた使い方をするべきだ』と申しています。
そして聡明な君主がいらっしゃれば、臣下は真心をさらけ出します。
だから先零(異民族の土地)の役の際に、趙充国は主君から誰を将軍にするのがよいかと問われ、『私にまさる者はおりません』と答えたのです。
(趙充国は前漢の武将で、異民族との戦いを長年に渡って経験していた人物です。
彼が70才を超えた時にも異民族の反乱が起きるのですが、その際に「自分以上の適任者はいないので、鎮圧を任せてください」と皇帝に申し出ています)
臣は自らの力量を測らずにおります。
どうか陛下にはご推察いただきたく存じます」
この発言によって、李恢は自分がその地位にふさわしいと、婉曲に伝えたのでした。
すると劉備は笑い、「わしの心はすでに君の上にある」と言って、李恢を庲降都督・使持節(独立裁量権の所有者)に任じました。
そして交州刺史(長官)を兼務させ、平夷県に在住させます。
これは蜀の南方の統治を、李恢に任せたことを意味しました。
庲降は蜀から二千里(千数百km)離れていたとされており、辺境の守備についたことになります。
李恢にはこの職務をこなす自信があったのですが、それが正しかったことが、しばらくして証明されています。
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