荀彧(じゅんいく)は曹操に仕えてその覇道を支えた名臣です。
若い頃からその秀でた人格と才能を知られており、「王佐の才」の持ち主であると賞賛されていました。
荀彧は戦略の立案や領地の統治、人材の推挙など、多方面に渡って活躍し、曹操の勢力の躍進に貢献しました。
しかし曹操が王位を望むようになってから、漢王室の復興を志していた荀彧との仲違いが発生し、最後は自害に追い込まれています。
この文章では、そんな荀彧の生涯と、曹操との関係について書いてみます。
【荀彧の肖像画】
荀家の一族に生まれる
荀彧の祖先は法家主義を唱えた思想家・荀子であるとされており、儒学にも通じた知識人の家柄に生まれています。
荀彧の父は荀緄(じゅんこん)と言い、済南国の相(最高官)を務めた経歴を持っていました。
叔父の荀爽(じゅんそう)も司空という中央の高官に就任しており、伝統的な教養を備え、高い官位を得て栄えていた一族の出身であったといえます。
そんな中で、荀彧は若い頃から「王佐の才」の持ち主であると言われ、将来を嘱望されていました。
王佐の才とは、徳治を行う君主を補佐する才能を持っている、という意味です。
孝廉の推挙を受けて官職を得る
荀彧は初め、出身地である潁川(えいせん)の太守・陰修に取り立てられ、この時から世に名前が顕れています。
そして孝廉(こうれん)に推挙され、守宮令という中央の官職を得ました。
当時の人材登用の方法は、有力者の推薦によって人材が取り立てられる仕組みだったのですが、孝廉はこの中で、人格に徳を備えている人物を見出すための科目でした。
後漢の時代は孝廉が偏重される傾向にあり、荀彧のように儒教を修めた人物にとっては、世に出やすい環境であったと言えます。
孝廉が重視されていたのは、前漢が臣下の王莽の簒奪によって滅びたためで、主君への忠誠を重視する儒教の教えを広めることにより、こうした事態を防ごうとしたことに起因しています。
董卓の台頭によって官を捨てる
しかし荀彧が朝廷に仕えた頃には、暴政をしいた董卓が台頭していた時期にあたり、間もなく軍閥同士の激しい闘争が開始されることになります。
荀彧は乱の勃発以前にこれを予想しており、このために官を捨てて故郷の潁川に帰郷しました。
そしてやがては故郷にも戦乱の手が忍び寄ってくることも予想し、古老たちに土地を離れるようにと勧めます。
しかし荀彧の言葉に耳を貸すものは少なかったため、やむなく自分の一族だけを連れ、大陸の北部にある冀州(きしゅう)へと避難しました。
荀彧が予期した通り、しばらくして潁川は董卓軍に襲撃され、多くの住民が殺害されています。
袁紹の元を離れ、曹操に出会う
荀彧が冀州に向かったのは、冀州牧(長官)の韓馥に招かれたからなのですが、到着した頃には袁紹によって奪取されていました。
袁紹は名門の家柄の出身で、それゆえに董卓討伐軍を主導する立場につき、群雄の中で頭角を表しつつありました。
そして戦乱を勝ち抜くために、多くの人材を集めています。
同郷の郭図や辛評たちは袁紹に仕えますが、荀彧は袁紹は血筋こそよいものの、優柔不断で判断力に乏しく、漢の復興を成し遂げられるような人物ではないとみなしました。
このため、招かれたものの彼には仕えていません。
荀彧は冀州を離れると、この頃に奮武将軍の地位にあった曹操の陣営に赴きました。
この時に曹操は「我が子房(しぼう)が来た」と言って荀彧の訪問を喜び、そのまま自分の陣営に加わるようにと要請しました。
荀彧はこれを受け入れ、曹操の陣営に属して活動することになります。
荀彧はこの時29才でした。
我が子房
子房とは、前漢を建国した高祖・劉邦に仕えた張良のことで、この時代では智謀に優れた人物の代名詞のような存在でした。
曹操はその張良に荀彧をなぞらえることで、歓心を誘ったことになります。
荀彧は漢の復興のためには、曹操のような優れた人物を担いで戦乱を鎮めることが必要であると判断しました。
そして曹操が「子房」という名前を出したことで、曹操もまた漢の復興に尽くしてくれるだろうと考えたようです。
しかし曹操の真意は別のところにあり、このためにやがて両者の関係には、きしみが発生していくことになります。
【次のページに続く▼】