赤壁の戦いは208年に、曹操と劉備・孫権連合軍の間で発生した大規模な戦闘です。
曹操は圧倒的な大軍を率いて揚州に押しよせ、孫権を降伏させようとしましたが、劉備と孫権は同盟を結び、これに抵抗しました。
そして孫権は重臣の周瑜に軍勢を預け、劉備の軍勢と合流して曹操を迎撃させます。
周瑜は黄蓋の献策を受け、火計によって曹操の船団を焼き払い、劉備とともに追撃をしかけ、曹操を打ち破りました。
この結果、曹操の天下統一の野望が阻まれ、しばらく後に蜀や呉が建国され、三国時代が始まることになります。
この文章では、歴史の重要な分岐点となった、赤壁の戦いについて書いています。
曹操の荊州侵攻から始まった
赤壁の戦いは、曹操が208年に荊州に侵攻したことがきっかけで発生しました。
荊州はそれまで劉表が支配していましたが、曹操が本格的に攻撃に移る前に死去し、次男の劉琮が後を継ぎます。
すると劉琮は重臣らに説得され、曹操への抗戦をあきらめ、降伏を申し入れました。
これを受諾した曹操は、やすやすと荊州を手に入れ、勢力を大きく拡大します。
【曹操は荊州を制し、天下統一まであと一歩と迫る】
劉備が南に逃れる
劉表が健在だった時には、劉備が荊州北部の新野に駐屯し、曹操の侵攻を防いでいました。
しかし劉琮が降伏してしまったため、劉備は新野を放棄して荊州の南部に移動します。
そして長坂で曹操の追撃を受けましたが、かろうじてこれを振り切り、逃走しました。
そして劉琮と対立していた劉表の長男、劉琦と江夏で合流し、勢力を盛り返します。
こうしてまずは、曹操と劉備が対立する情勢となりました。
【劉備は曹操に敗れ、荊州南部に逃れる】
孫権への圧迫
曹操はすでに北方を制して大勢力を築いていましたが、荊州の占拠にも成功したことから、天下統一まであと一歩と迫ります。
残る主な敵は揚州と益州のみとなり、しかも益州を支配する劉璋は、曹操に同盟を求めて使者を送ってきていました。
曹操は統一の仕上げをするため、揚州を支配する孫権に対し、八十万の軍勢を率いていると豪語し、臣従を促す手紙を送ります。
孫権の兵力は数万規模でしたので、孫権の臣下たちは曹操を大変に怖れ、降伏を促す者が続出しました。
もしもこの時、孫権が曹操に従っていたら、この時点で戦乱は終わっていたでしょう。
しかし孫権の重臣である魯粛と周瑜の二人が、曹操と対決するよう、孫権に熱心に勧めました。
【曹操に降伏を迫られた孫権】
劉備と孫権の同盟
魯粛は曹操が荊州への侵攻を開始した時期に、劉表の遺子たちや劉備と会談し、団結して曹操に抵抗するよう、促すつもりでいました。
そして劉表への弔問がてら、工作をしようとしたのですが、それよりも先に劉琮が降伏してしまったため、果たせませんでした。
このため、魯粛は次善の策として、曹操に追われた劉備を探し出し、孫権と手を組み、曹操に対抗することを勧めます。
これに腹心の諸葛亮が賛同したことから、劉備は孫権との同盟を決意しました。
そして諸葛亮を魯粛とともに呉に向かわせ、孫権との同盟を正式に締結します。
こうして魯粛の策によって、曹操対劉備・孫権連合という構図ができあがったのでした。
劉備は孫権の支配下にあった夏口に移動し、孫権軍と連携を取って行動する準備を整えます。
【劉備と孫権の同盟を実現した魯粛】
孫権陣営の動き
魯粛が味方を増やしたものの、孫権陣営の大半の臣下たちは、あくまでも戦いに反対していました。
このため、呉に帰還した魯粛は孫権に意見を述べ、開戦を促します。
降伏を勧める臣下たちは、曹操に仕えても立身することができるが、君主である孫権はそうはいかず、身を縮めて生きざるを得なくなる、というのが魯粛が孫権に説いたことでした。
魯粛はかねてより、孫権を帝王にしたいと思って仕えていましたので、曹操に降伏することには強固に反対します。
孫権自身もまた、曹操に従うことをよしとしなかったので、魯粛と同じく主戦論者である周瑜を呼び戻し、その上で議論を決することにしました。
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