中国は大陸国家であるため、古代から現代に至るまで、様々な民族が入り混じって暮らしています。
その中には氐という民族がおり、主に中国の西部、漢代には涼州と呼ばれた地域に在住していました。
前漢の武帝は外征を繰り返し、それまで圧迫を受けていた匈奴などの異民族を追い払い、支配領域を拡大します。
その流れの中で、涼州に新たに武都郡が設けられると、そこに住んでいた氐族たちは、漢民族に住みかを追われてしまいました。
そして北方にある山や谷などの、不便な土地に点在して移り住むようになります。
やがて彼らには青氐や白氐など、服の色を取った異名がつけられました。
勢力を増した漢民族たちは、彼らは獣や鳥、爬虫類のようなもので、まっとうな人間ではない(化外)として差別するようになっていましたが、色で区別したのがその現れだったのだと言えます。
このため、辺境においてはたびたび氐族と、漢民族の抗争が発生するようになりました。
なお氐族たちは、自らを蓋稚と名のっています。
三国志における氐族
『魏略』という史書には、建安年間(196-220年)ごろ、氐族には何人かの王がおり、阿貴や千万といった者たちが、それぞれに一万あまりの兵を率いていたと書かれています。
氐族は居住地域によっても呼ばれ方が異なり、阿貴は興国氐、千万は百頃氐という部族の長でした。
彼らは馬超が212年に、涼州で曹操に対する反乱を起こした際に、その戦列に加わりました。
【反乱を起こし、涼州の独立を図った馬超】
馬超の祖父は羌族の娘と結婚していたため、彼は羌族の血を引いていました。
羌族と氐族は近い関係にありましたので、阿貴らは馬超に協力して漢民族を倒し、かつての自分たちの土地を取り戻そうとしたのだと思われます。
しかし馬超は曹操配下の、夏侯淵や張郃の攻撃を受けて敗れ、漢中に逃亡しました。
そして阿貴は夏侯淵に斬られ、千万は益州に逃亡しています。
こうして氐族は反乱に失敗して勢力を失い、残された者たちは曹操に降伏しました。
彼らは長安に近い扶風に移住させられ、魏の指図を受けるようになります。
また、反乱を起こさなかった者たちは、天水から南安の一帯にとどまり、こちらも魏の支配下に置かれました。
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