鄭渾 いたわりの心を持ち、各地で善政をしいた名太守

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鄭渾ていこんは曹操や曹丕に仕え、各地の太守を歴任した人物です。

反乱を鎮圧し、治安の改善や生産力の向上に勤め、民の暮らしを豊かにしました。

それでいて自らの財産には興味がなく、清廉で飾り気のない生涯を送っています。

この文章では、そんな鄭渾について書いています。

河南に生まれる

鄭渾はあざな文公ぶんこうといい、河南かなん開封かいほう県の出身です。

高祖父の鄭しゅうと、その父の鄭こうは、いずれも名を知られた儒学者でした。

また、兄の鄭たいは大将軍・何進の側近となり、後には荀攸じゅんゆうたちとともに董卓を誅伐しようとしたことがあります。

そして揚州刺史(長官)になってから亡くなりました。

鄭渾は兄の子である幼い鄭ぼうを連れ、淮南わいなんに避難します。

すると袁術によって賓客としての手厚い礼遇を受けました。

しかし鄭渾は、袁術は必ず敗れるだろうと考えます。

この時、華歆かきん豫章よしょう太守になっていましたが、兄の鄭泰が親しく付き合っていた相手でした。

このため、鄭渾は長江を渡り、華歆を頼って移住しています。

鄭渾地図

曹操に召し出される

やがて曹操が鄭渾の篤行を知り、召し出してえん(属官)に任命しました。

そして下蔡かさいの県長に任命し、ついで邵陵しょうりょうの県令に昇進させます。

このころ、天下はまだ定まらず、民は軽率なふるまいをすることが多くなり、生産活動を怠り、資産を蓄えようとはしなくなっていました。

子供が生まれても育てようとせず、社会の規範が崩れていました。

そこで鄭渾は民から漁や狩猟の道具を取り上げ、農耕や養蚕に取り組むように仕向けます。

また、同時に稲田を開墾し、捨て子を抑制するために法を変え、罪を重くしました。

民は初め、罪を恐れていただけでしたが、やがて生活が豊かになり、満ち足りた境遇を得るようになります。

すると、育てられた男子にも女子にも、「鄭」を字にする子が多くなりました。

このことから、鄭渾が民から慕われていたことがわかります。

鄭渾はやがて丞相掾属(首相の属官)となり、それから左馮翊さひょうよく(長安の行政長官)に転任し、立身しました。

賊に対処する

このころ、賊の梁興りょこうらが官民五千余家を味方にし、略奪を働いていました。

諸県はこれを防ぐことができないと考え、みなが恐怖にかられ、郡の役所に寄り集まってきます。

議論をする者たちはみな、険しく守りの固い場所に移るべきだと主張しました。

鄭渾は「梁興らは打ち破られてばらばらになり、険しい山の中に逃げ隠れている。やつについていく者がいても、それは脅されて従っているだけのことだ。

いまは広く降伏への道を開き、恩徳と信義を示し、諭すべきときだ。険阻けんそを保って安全にしようとすると、こちらを弱く見せることになる」と述べ、反対します。

そして官民を収容し、城郭を修復して防衛の備えをしました。

また、民を動員して賊を追わせ、賞罰を明らかにし、捕獲したもののうちの七割を与えると約束します。

民はおおいに喜び、みなが賊を捕らえることを願い、婦女や財物をたくさん獲得しました。

賊が降伏し、分裂する

すると賊の中で、妻子を失った者は戻ってきて、降伏を求めてきます。

鄭渾は彼らが他人の婦女を奪ったことを責め、その後で妻子を返してやりました。

すると賊たちは分裂し、互いに争いあうようになり、その勢力は離散していきます。

また、官民の中から、恩情と信望のある者を山谷に派遣し、賊を説諭させると、そこから出てくる者たちが相次ぎました。

それから諸県の高官をそれぞれの土地に戻し、統治を安定させます。

このようにして、鄭渾は見事な手腕によって、賊の勢力を減じ、治安の改善に成功しました。

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