杜畿 河東の反乱を鎮め、善政をしいて繁栄させる

スポンサーリンク

杜畿ときは荀彧の推薦を受け、混乱していた河東の太守になった人物です。

単身で敵地に乗り込んで反乱を治め、善政をしいて河東を繁栄させました。

そして食糧の増産に成功し、曹操の軍事活動を支えます。

この功績によって、曹操から「非の打ち所がない」とまで称賛されました。

この文章ではそんな杜畿について書いています。

京兆に生まれる

杜畿はあざな伯候はくこうといい、京兆けいちょう杜陵とりょう県の出身でした。

漢の御史大夫(皇帝の側近)である杜延年とえんねんの子孫です。

若いころに父をなくし、継母によって苦しめられましたが、孝行を尽くし、それによって人に知られるようになりました。

二十才の時に郡の功曹こうそう(人事官)となり、鄭の県令を代行します。

県には数百人の囚人がつながれていましたが、杜畿は自ら裁判をして罪の軽重をはかり、判決を下しました。

その全てが妥当だったわけではないのですが、郡では杜畿がまだ若いのに、物事の大意をつかんでいるとして評価します。

やがて孝廉に推挙され、漢中府のじょう(副官)に任命されました。

杜畿地図1

荀彧の推薦で曹操に仕える

やがて天下が混乱にみまわれると、官を捨てて荊州に避難します。

建安年間(一九六年以降)になると、中央に戻ってきます。

このころに曹操が献帝を許都に迎え、新たな体制を構築しつつありました。

そして曹操の腹心である荀彧の推薦を受け、司空司直、護羌ごきょう校尉、使持節西平太守として起用されます。

これによって杜畿は西方の統治を担当することになりました。

荀彧に推薦を受けた経緯

杜畿は荊州から戻って後、許都を訪れて侍中の耿紀こうきに会い、夜通し語り合いました。

尚書令(政務長官)の地位にあった荀彧は、耿紀の隣の家に住んでいたので、杜畿の発言を耳にします。

そしてこれはただ者ではないと思い、人を遣わして耿紀に告げました。

「国士がそこにいるとのに推薦しないとは、なんのためにその地位にいるのだ?」

荀彧は杜畿に会うと、旧知の仲であるかのように、彼のことをよく理解します。

そして朝廷に推薦したのでした。

并州で反乱が起き、河東太守になる

曹操が河北を平定した後、高幹こうかんへい州をあげて反乱を起こします。

この時、河東太守は王邑おうゆうでしたが、やがて朝廷に召喚されました。

河東の衞固えいこ范先はんせんといった者たちは、表面的には王邑が河東にとどまることを求めていましたが、実際には高幹と内通していました。

この事態を受け、曹操は荀彧に言います。

「関西の諸将は険阻と騎馬をたのみとしており、これを征伐しようとすれば、必ず乱を起こすだろう。一方、張晟ちょうせいこうべんの間を荒らしてまわり、しかも南方の劉表と通じており、衞固らも従っている。わしは彼らが深刻な被害をもたらすのではないかと恐れている。

河東には山地があって河が流れており、近隣では変事が多発している。ただいま、天下の要の地になっていると言えよう。君には蕭何しょうか寇恂こうじゅんのような優れた人物を推挙してほしい。それによってこの地を鎮めたい」

すると荀彧は「杜畿がそれにふさわしいでしょう」と答えます。

これによって、杜畿は河東太守に任命されました。

杜畿地図2

単身で河東に乗り込む

衞固らが数千人を動員し、陝津せんしんの通行を断ち切らせたため、杜畿は河を渡ることができませんでした。

曹操は夏侯惇を派遣してこれを討とうとしましたが、まだ到着しないうちに、ある人が「大軍が到着するのを待つのがよいでしょう」と杜畿に言います。

すろ杜畿は「河東には三万戸があるが、みなが乱を起こしたいと思っているわけではない。今、兵がこれに迫ることが急であるのなら、善良な者たちも指導者がいないので、必ず衞固らの言い分に耳を貸すようになるだろう。

衞固らが軍勢をまとめると、必死になって戦うようになる。もしも討伐して勝てなければ、近隣の者たちが彼らに呼応し、天下の変事を終息させることができなくなる。また、討伐してこれに勝利しても、一郡の民がひどい被害を受けることになる。

衞固らは、まだ朝廷の命令を拒んでおらず、表向きは主君の留任を願っている状況だ。だから新しい主君が赴任しても、これを殺害しようとはしないだろう。だからわしは一台の車だけで行き、その不意をつこう。

衞固は計略は多いが決断力はないので、必ず偽ってわしを受け入れるだろう。わしが郡に一月もいることができれば、彼らを足止めすることができよう」

こうして杜畿は郖津とうしんを渡り、河東に入りました。

【次のページに続く▼】