諡は皇帝や高官が、死後に贈られる名前のことです。
「おくりな」という読みは「贈り名」から来ています。
たとえば三国志では、曹操は死後に武帝、劉備は昭烈帝と諡されています。
このような称号には、生前の人柄や活動内容が反映されています。
曹操は戦いに強く、強敵を打ち負かして勢力を大きくしていきましたので、「武」が諡になっています。
劉備の「昭」は「徳を明らかにした」「すばらしい評判が広まっている」といった意味があり、「烈」は「徳によって業績を立てた」といった意味があります。
劉備は人徳があり、統治者として民衆からの評判がよく、臣下たちにも慕われましたので、このような諡がされたのだと思われます。
【昭烈帝こと劉備の肖像画】
これらは「諡号」と呼ばれたり「諡」と呼ばれたりするのですが、厳密には「昭烈帝」が諡号で、「昭烈」が諡となります。
諡の起源と基準
中国では殷という古代王朝の時代から、諡をする習慣がありました。
制度として確立されたのは、それに次ぐ周王朝の中期(紀元前9世紀ごろ)です。
どのような諡をするのかの基準は『逸周書・諡法解』という書物によって定められていました。
諡には大きく分けて三つの種類があり、称賛のために贈られる「美」、哀悼のための「平」、批判のための「悪」があります。
美
美には「文・武・昭・景・明・桓・恵・孝・貞」などがあり、よい意味の文字が並んでいます。
さきほどあげた曹操の武帝や、劉備の昭烈帝がこれにあたります。
曹操の子の曹丕は「文帝」、孫の曹叡は「明帝」で、いずれもこのカテゴリーの諡がされています。
平
平には「懐・哀・悼」などがあり、若くして亡くなった君主に贈られています。
たとえば、前漢には哀帝という皇帝がいましたが、わずか25才で死去したことから、この諡がつけられています。
悪
悪には「暴・昏・煬・幽」などがあり、暴君を批判するために贈られました。
たとえば、隋を滅ぼしてしまった二代目の皇帝は煬帝と諡されています。
「煬」は「あぶる」や「火でとかす・燃やす」といった意味ですが、それが国を滅ぼしたという行為に結びつけられているようです。
悪は贈られなくなる
皇帝に対しても悪の諡をしたのは、死後に不名誉な称号を贈られないよう、生前の行動を慎ませるためでした。
隋の煬帝は国を滅ぼされ、唐にとって代わられましたが、隋の権威を否定する目的もあり、唐によって悪の諡号が贈られました。
煬帝には失政が多かったのは事実なようですが、唐王朝が自身の権力を正当化するために、過剰に彼を貶め、諡号によってそれを強調したという流れがありました。
このように、やや本来の目的からずれた用いられ方がなされるようになったため、宋の時代に制度が改められ、悪の諡は廃止され、美か平のみが用いられるようになります。
皇帝の諡の決め方
王や皇帝の諡号は、礼官が上記の基準を元に定めることになっていました。
そして、次代の皇帝が臨席する会議で承認され、最高位の大臣がこれを発表するしきたりとなっています。
大臣などの高官が亡くなった際には、その子供や属官が生前の業績をまとめた書類を提出し、王や皇帝が承認を与えた場合にのみ、礼官が諡号を考案して授与することになっていました。
このように、相手が君主であっても臣下(礼官)が諡を定める制度になっていましたので、秦の始皇帝はこれを嫌い、「臣下が君主の死後にその業績を評価するのは僭越である」として、いったん諡の制度を廃止しています。
これは皇帝の地位が生まれたばかりなので、臣下に評価されない至高の存在であると、権威づけを行うための措置だったと思われます。
【始皇帝 「皇帝の諡は二世皇帝、三世皇帝と自動的に決めれば良い」と述べた】
しかし次の漢の時代になると復活し、曹操や劉備も諡をされることになりました。
三国志の人物たちの諡号
蜀
蜀の丞相として活躍した諸葛亮は、死後に忠武候と諡されています。
他には関羽が壮繆候、張飛が桓候、馬超が威候、黄忠が剛候、趙雲が順平候と諡されました。
張飛の「桓」には「いさましい」という意味があります。
趙雲の諡号は、姜維が劉禅に意見を出した記録が残っています。
「つつしんで諡号の規則を調べますと、柔順・賢明・慈愛・恩恵を有するものを『順』と称し、秩序だって仕事をすることを『平』と称し、動乱を平定することを『平』と称します。
このため、趙雲に順平候の諡号を賜るのが至当と存じます」
このようにして、各人の諡号は定められていたようです。
魏
魏の人物では夏侯惇が忠候、夏侯淵が愍候、曹仁が忠候、曹洪が恭候、荀彧が敬候と諡されています。
夏侯淵の「愍」は「憐れむ」という意味で、これは彼が定軍山の戦いで黄忠に討ち取られ、非業の死を遂げたことから、このような諡号になったのだと思われます。
呉
呉では陸遜が昭候、張昭が文候と諡されています。