鄧艾は魏に仕えて活躍した将軍です。
蜀軍を率いる姜維とたびたび対戦し、勝利を重ねます。
そして魏が蜀に侵攻した際に決定的な勝利を収め、蜀を滅亡させました。
鄧艾は農政官としても優れた能力を持っており、魏の食糧生産力の向上に、おおいに貢献しています。
しかし強情でせっかちな性格だったので、人に好かれず、これが原因となって、謀反人の汚名を着せられ、非業の死を迎えることになってしまいました。
この文章では、そんな鄧艾の生涯について書いています。
荊州で生まれる
鄧艾は字を士載といい、荊州の義陽郡・棘陽県の出身でした。
生年は不明となっています。
二〇八年に、曹操が荊州に侵攻すると、戦火を避けるため、豫州の汝南に移住しています。
そして農家のために子牛を育てる仕事につきました。
鄧艾は早くに父を亡くしていたので、まだ子供だったのに、働かなければならなかったようです。
改名する
鄧艾は十二才になると、母と一緒に潁川に行き、そこで陳寔という人について書かれた碑文を読みました。
そこには「文は世の範(きまり)であり、行いは士の則(手本)である」と書かれていました。
鄧艾はそれを読んで影響を受け、自ら名を「範」に、字を「士則」に変えます。
しかし、後に一族の中に同じ名前をつけた人が現れたので、さらに「艾」と改名しました。
こうして姓名が「鄧艾」になっています。
将来は大臣になると予測される
このころ、謁者(取次役)の地位にあった郭玄信という人がいました。彼はある時、使者として地方に派遣された際に、御者がほしいと願い出ました。
すると鄧艾と、同僚の石苞がその役目を果たすことになります。
そして十数里の間、郭玄信は鄧艾と石苞と語り合ったのですが、ともに利発だったので、二人とも、いずれは大臣にまで立身するだろうと予測しました。
この予測は、後に的中することになります。
学士となるも、地位を得られず
鄧艾はその後、都尉学士になり、出世につながる機会を得ています。
しかし吃音だったので、本来得られるはずの、幹佐という地位を得られませんでした。
幹佐は公式文書を取り扱う、役所の補佐官です。
そのかわりに、稲田守叢草吏という、農政を行う役所の属官になりました。
このようにして、鄧艾はひとまず出世コースから外れるとともに、農業との関わりが強くなっています。
援助を受けるも、礼を言わず
鄧艾は家が貧しく、当人もハンデを負っており、生まれつき頭はよかったのですが、なかなか人から認められにくい状況に置かれます。
すると郡の役人の父親が、鄧艾の家が貧しいことに同情し、手厚く援助をしてくれました。
しかし鄧艾は初め、これに対して感謝の意を表しませんでした。
鄧艾には、かたくななところがあったようです。
その境遇ゆえに、簡単に人に心を開けない性格になっていたのかもしれません。
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