鄧艾 姜維を打ち破り、蜀を攻め滅ぼした魏の名将

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西方に赴任する

やがて鄧艾は参征西さんせいせい軍事となり、南安なんあん太守に就任します。つまりは西方の軍事を担当するようになったのでした。

このころ、蜀の将軍である姜維が盛んに侵攻をしかけてきていましたので、鄧艾はそれに対応することになりました。

二四九年に姜維が攻め込んでくると、鄧艾は征西将軍の郭淮かくわいの元で、これを迎撃します。

やがて姜維が退却すると、郭淮はそれに乗じて、姜維に味方する西方のきょう族を攻撃しにかかりました。

この時に鄧艾は「賊軍は遠くに行っていませんので、引き返してくる可能性があります。部隊を分け、不測の事態に対応できるようにしておくべきでしょう」と進言します。

これを受け、郭淮は鄧艾を白水はくすいの北に配置することにしました。

姜維の攻撃を防ぐ

するとその三日後、姜維は将軍の廖化りょうかを進軍させ、白水の南に陣取らせ、鄧艾に対抗させます。

これを受け、鄧艾は諸将に告げました。

「姜維が引き返してきたが、こちらの軍勢は数が少ない。なので敵は河を渡って攻めかかってくるはずだが、橋をかけようとする気配がない。姜維は廖化をこちらと対峙させ、足止めをさせておいて、その間に自らは東に進軍し、とう城を奪うつもりなのだろう」

洮城は白水の北にあり、鄧艾がいる場所からは六十里(約24km)ほど離れていました。

鄧艾は夜のうちに、ひそかに軍勢を動かし、洮城に入ります。

すると姜維が読みどおりに河を渡り、攻め寄せてきました。

しかし鄧艾が先に到着して守りを固めていたので、攻め落とすことができず、退却しています。

こうして魏は敗北を免れましたが、鄧艾は功績を認められ、関内かんだい侯の爵位を与えられました。

さらに討寇とうこう将軍の地位を付与され、城陽太守に転任しています。

こうして鄧艾は優れた智謀を発揮し、各地の戦いで活躍していくことになります。

農政のかたわら、軍事についても学んでいたことが、役に立ったのでした。

鄧艾2

異民族対策に意見を述べる

このころ、北方のへい州には匈奴きょうどという異民族が住んでおり、右賢王・劉豹りゅうひょうが民を束ね、一つの部族として存在していました。

かつて曹操が、異民族を傭兵として用いて戦力にするために、国内の周辺部に住まわせる政策を取っており、この結果、魏は異民族の人口が多くなっていたのです。

鄧艾は彼らの扱いについて、上奏をして意見を述べました。

「蛮族は獣のごとき心を備えており、道義を説いて親しませることはできません。強くなれば侵略し、弱い時は従います。このため、かつて周の宣王の時代に匈奴は侵攻してきました。また、漢の高祖(劉邦)の時代には、平城で匈奴に包囲されたことがありました。

匈奴は勢力を増すたびに、これまでの歴史上、つねに災いとなりました。単于ぜんう(匈奴の王)が国の外にいて、部族長や民への影響力を失ったので、彼に誘いをかけて国内に招き寄せ、参内させました。

このため、羌族は統率者を失い、離散集合をくり返すようになりました。単于を国内に招いたことで、はるか遠い地の者たちまで、こちらの規範に従わせることができたのです。

しかしいま、単于の影響力が低下し、国の外にいる異民族の勢威が、次第に増してきています。ですので、蛮族に対する備えを強化しておく必要があります。

聞くところによりますと、劉豹の部族では、反乱が発生したようです。これにつけこみ、部族を二つに裂き、勢力を弱らせるべきです。

去卑きょひ(以前の右賢王)は武帝(曹操)の時代に目立った功績を立てたのに、その子は功業を受け継いでいません。どうか子に高い位を与え、雁門がんもんに住まわせてください。

匈奴を二つに分けて弱体化させ、昔の勲功によって恩賞を与えることで、国境地帯を長く統制していくことができます」

このころには、すでに鄧艾を取り立てた司馬懿は亡くなっていました。

すると代わって、長男である司馬師しばしが大将軍になり、魏の実権を握ります。

曹氏の皇帝は飾り物となり、司馬氏の権勢は増すばかりとなっていました。

このため、司馬懿に見いだされた鄧艾が、用いられやすい状況になっていたのです。

司馬師は鄧艾の提言を受けると、そのほとんどを受け入れ、実行に移しました。

鄧艾は魏の勢力を保つために、多方面に目配りをしていたのです。

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