恩返しをする
その後、鄧艾は汝南太守となります。
ここは鄧艾が子供のころに暮らしていた土地で、郡の役人の父親から支援を受けていたことがありました。
このため、鄧艾は汝南に到着すると、恩人の行方を探します。
すると、ずっと前に亡くなっていたことがわかったので、部下の役人を送って祭らせました。
そしてその母にたくさんの贈り物をし、子供を推挙して計吏に取り立てます。
鄧艾はかつて、恩を受けても感謝しなかったのですが、このころには功成り名遂げ、恩に報いようとするだけの心のゆとりが生まれていたのでしょう。
鄧艾は赴任した先で荒れ地の開墾を進めたので、軍隊も民も、ともに豊かになりました。
こうして鄧艾は、各地で優れた治績を残していきます。
諸葛恪の失脚を予見する
このころ、呉の皇帝は二代目の孫亮になっていましたが、まだ年少だったので、重臣の諸葛恪が実権を握っていました。
諸葛恪は呉の大将軍だった諸葛瑾の子で、諸葛亮の甥でもあります。
諸葛恪は自分の才能をたのみ、代替わりをしてさほど間がないのに、大軍を率いて魏に攻撃をしかけました。
そして合肥の新城を包囲しましたが、大きな損害を出し、敗北して撤退しています。
このことを知った鄧艾は、次のように司馬師に言いました。
「孫権が没してから、呉の重臣たちはまだ新しい主に対し、十分に心を寄せてはいません。そして呉の名族や豪族たちは、みなそれぞれに兵を蓄えており、その軍事力を頼みにすれば、独立することも可能です。
諸葛恪は権力を握ったばかりですが、君主の存在を無視し、人々をいたわり、その心をつかみ、基盤を形成することに気を配っていません。戦いに心を傾け、民を使役していたぶり、国軍を総動員して堅城を攻めましたが、失敗し、万単位の死者を出して撤退しました。ゆえに、諸葛恪はまもなく罰を受けることになるでしょう。
その昔、伍子胥や呉起、商鞅、楽毅らは、みな君主の信頼を受けていましたが、君主が亡くなると権力を失いました。諸葛恪の才能はこの四人の賢者よりも劣っていますのに、災いに備えていません。ゆえに、彼は遠からず滅亡するでしょう」
諸葛恪は帰国すると、鄧艾が予測したとおりに処刑されています。
このようにして、鄧艾は呉の政治情勢にも通じていたのでした。
さらに立身し、政治の方針に意見を述べる
やがて鄧艾は兗州刺史に昇進し、振威将軍の号を付与されました。
すると上奏し、次のように述べます。
「国家が急ぎ取り組むべきことは、農業と軍事です。国が富めば軍が強くなり、戦いに勝利できますが、しかし勝利の基盤となるのは農業です。
孔子は政治の要点について質問されると『食糧を満たし、軍備を満たすことだ』と答えました。このように、食糧は軍備よりも前に置かれています。
上が爵位を設け、奨励することがなければ、下が蓄財をすることはありません。
治績を評価する際に、穀物を蓄え、民を富裕にした者を重視して恩賞をくだされば、称賛を得るために行われる交際の道はとだえ、表面だけを飾ればよいとする浮ついた風潮は、その源を絶たれるでしょう」
このようにして、鄧艾は政治が質実になることを求めたのでした。
自分のやっていることを評価してほしい、と訴えたことにもなりますが、実際のところ、鄧艾の主張は筋の通った正しいものだったと言えます。
また、鄧艾は吃音だったので、交際が苦手だったことにも、この主張をさせる要因になったかもしれません。
鄧艾は優れた能力ゆえに用いられていましたが、立場の近い者たちとの関係はよくなく、孤立しがちな傾向にありました。
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