軍事の研究をする
鄧艾は単に農政官として働くだけでなく、軍事的に地形の研究を行ってもいました。
各地を移動している際に、高い山や沼地などを見かけると、いつも軍営をどこに設置するのがよいのだろうかと、測量をしたり、図形を描いたりして検討します。
農政官の業務には関係のない行為でしたので、周囲の人たちは鄧艾をあざ笑いました。
しかしこの行いが後に、鄧艾が将軍となった時に、おおいに役立つことになります。
鄧艾には、戦乱の世にあって、ただの農政官では終わるまいとする気概があったのでしょう。
司馬懿に才能を見いだされる
やがて鄧艾は典農綱紀・上計吏に昇進しました。
上計吏は各地の状況を中央に報告する役目でしたので、これによって鄧艾は要人と接する機会を得ます。
鄧艾は都におもむいた際に、司馬懿に会いました。
当時、司馬懿は太尉(国防大臣)の地位にありましたが、鄧艾の才能を高く評価し、召し出して自分の属官に任命しました。
そして尚書郎(政務官)に昇進させています。
こうして鄧艾は一躍、中央省庁における地位を獲得したのでした。
運河を設けるように進言する
やがて魏では、農地を拡充し、食糧の生産力を高めるための計画を立てることになります。
これによって、敵対する蜀や呉を攻め滅ぼすための、基盤を確立しようとしたのでした。
鄧艾は、元は農政官でしたので、この任務を割り当てられ、東部に派遣され、寿春など各地を視察します。
この結果、鄧艾は次のように考えました。
「田畑の質がよかったとしても、十分に水が供給されなければ、多くの収穫は得られない。なので、運河を開通するのがよいだろう。灌漑を行って水を引けば、生産量が増え、食糧を備蓄することができるようになる上に、水運の利便性も高まる」
これを『済河論』という文章にまとめて報告しました。
鄧艾の計画
さらに鄧艾は、具体的に東部における農政の変更を提案します。
「その昔、黄巾を撃破した際に、屯田の制度が設けられました。そして許都に穀物が蓄積され、四方を討伐するのに用いられています。ただいま、三つの方面は治められていますが、まだ淮南の地域には、それが及んでいません。
大軍が進軍するたびに、過半数の兵士が遠くからやってくるので、大変な費用を要し、多大な労力が費やされています。
陳や蔡の地には、質がよく、農耕に向いた土地があります。ですので、許昌の田畑を廃止し、用水を東に送ります。そして淮水の北に二万人、南に三万人を配置し、耕作をさせます。五分の一を交代で休ませ、四万人が常に耕作にあたり、同時に守備につかせます。
水が豊富になれば、西方の三倍の収穫が得られます。費用を差し引くと、毎年五百万斛の穀物を、軍に提供することができます。そして六、七年がたつと、三千万斛を淮水のあたりに蓄積できますが、これは十万の軍勢の、五年分の食糧になります。これを用い、呉の混乱に乗じて遠征をすれば、勝利を得られるでしょう」
これを聞いた司馬懿は、鄧艾の意見を高く評価し、すべて実行に移させました。
二四一年に運河が開通しましたが、呉との国境で変事があった時には、船を用いて長江や淮水に移動できるようになります。
そして食糧が豊富に備えられ、水害も減少しました。
こうして鄧艾の提案によって、魏軍の東方における食糧事情が改善され、呉への攻撃がしかけやすくなったのです。
提案の中に「黄巾を撃破した際に、屯田の制度が設けられました」とありますが、これはかつて、曹操が黄巾の残党を撃破した後に、彼らを受け入れて屯田に従事させたことをさしています。
これ以後、曹操の陣営は食糧が安定的に確保できるようになり、勢力が拡大しやすくなったのでした。
鄧艾はこの事例にならいつつ、現状に適した形に農政を変更したのです。
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