鄧艾 姜維を打ち破り、蜀を攻め滅ぼした魏の名将

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姜維との対戦を任される

司馬昭が総指揮をとり、鄧艾に命じ、三万の兵で姜維と対峙し、生け捕りにすることを命じました。

そして雍州刺史の諸葛しょが同じく三万を率い、姜維の退路を絶ち、鄧艾と挟み撃ちにすることになります。

また、鍾会しょうかいが十数万の兵を率い、蜀の防衛拠点である漢中の攻略を担当しました。

姜維を攻撃するも、取り逃がす

作戦がはじまると、鄧艾は諸将に命じ、姜維の陣営に迫らせます。

姜維は、鍾会の軍勢がすでに漢中に侵入していると知ると、引き下がって帰国しようとしました。

このため、鄧艾配下の将たちが追撃をかけ、大きな戦いとなります。

姜維は敗北しますが、そのまま蜀に戻ろうとしました。

しかし、すでに諸葛緒が橋頭きょうとうという地点をふさいでいたので、孔函谷こうかんこくを通って回り込み、諸葛緒の軍勢の背後に出ようとします。

これを知った諸葛緒は三十里(約12キロメートル)ほど軍勢を後退させました。

谷を進んでいた姜維は、諸葛緒の軍が移動し、橋頭ががら空きになったことを知ります。

このため、すぐに引き返して橋頭を突破しました。

諸葛緒は姜維が戻ったと聞いて、再び橋頭を抑えにかかりますが、一日の違いで姜維を取り逃がします。

こうして鄧艾は勝利したものの、任務を完全に果たすことはできませんでした。

剣閣で防がれる

鍾会が率いていた部隊は、蜀将の寝返りによって漢中を突破し、蜀の内部へと侵攻しつつありました。

これに対し、蜀へ戻った姜維は友軍と合流し、鍾会の進撃を阻むべく、要害である剣閣けんかくを固めます。

剣閣は険しい山地に築かれた要塞で、鍾会はいくら攻撃をしかけても、陥落させることができませんでした。

魏軍は遠くから食糧や物資を運んでいたので、不足しはじめ、やがて撤退を検討せざるを得なくなります。

すると鄧艾は上奏し、思い切った作戦を実行に移しました。

「ただいま、賊軍に打撃を与えたところですので、この機に乗じてさらに攻め入るべきです。陰平いんぺいから脇道に入り、徳陽亭を経由して涪に向かえば、剣閣の西百里、成都から三百里の地点に出ることができます。

奇襲部隊が敵の中枢に姿を表すことになりますので、剣閣の守備部隊は必ず撤退し、に向かってくるでしょう。そうすれば鍾会は進軍することができます。もしも剣閣の軍が引き返さなければ、涪が手薄になります。

兵法に『敵の備えが無いところを叩き、敵の不意をつく』とありますが、敵の備えがないところを攻撃するのですから、勝利は間違いないでしょう」

鄧艾の進軍

十月になると、鄧艾は陰平から脇道に入り、人家のない土地を七百里(約280キロメートル)も行軍しました。

鄧艾の部隊は山にトンネルを掘って通り抜け、谷があると橋をかけます。

しかし山は険しく、谷は深かったので、行軍はなかなかはかどりませんでした。

そして食糧の輸送も簡単にはいかなかったので、部隊はたびたび危機にみまわれます。

鄧艾は自ら毛織物に体を包み、斜面を転がり落ちました。また、将兵たちは崖をよじのぼり、互いに離れぬよう、魚の群れのように、連なって進みました。

そしてついに先頭の部隊が江由こうゆうにたどり着くと、備えをしていなかった蜀の守備部隊は降伏します。

蜀軍は内部にまで侵攻されるとは考えておらず、すっかりと油断していたのでした。

諸葛瞻が迎え撃ってくる

鄧艾が剣閣よりも内側に姿を表すと、蜀のえい将軍・諸葛せんが涪から綿竹めんちくへと移動し、軍勢を展開して鄧艾を迎え撃ちます。

諸葛瞻は、諸葛亮の子です。

この時、蜀軍の中には要害を固めるべきだという意見も出ていたのですが、諸葛瞻はわざわざ守りにくい平地に陣を構えたので、鄧艾からすると、撃破する好機が訪れました。

鄧艾は使者を送り、降伏すれば諸葛瞻を王位につけるという約束をしますが、この使者は斬られてしまいます。

このため、鄧艾は子の鄧忠とうちゅうに敵の右陣を、配下の師纂しさんに左陣を攻撃させました。

しかし彼らは敗北し、退却して「賊を打ち破ることはできません」と報告します。

鄧艾は立腹し「存亡はこの戦いにかかっている。できないではすまされぬ!」としかりつけ、彼らを処刑しようとしました。

そうして焚きつけられた鄧忠と師纂は戦場に戻り、もう一度、攻撃をしかけます。

すると必死になった鄧忠たちは、今度は勝利することができ、蜀軍に大勝しました。

そして諸葛瞻の首をとり、蜀軍を壊滅させます。

こうして鄧艾は当初の目的を越え、鍾会を支援するだけでなく、自らが蜀の制圧を達成する機会を得ました。

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