聖徳太子(厩戸王) 古代日本の発展に尽くした英才の生涯

スポンサーリンク

聖徳太子は古代の日本において、国政の改革や、新しい文物の吸収に力を尽くした人物です。

「十七条憲法」や「冠位十二階」などを制定し、国家体制の確立をはかりました。

また、仏教や暦など、外来の宗教、文化などを日本に定着させることにも貢献しています。

太子の時代をきっかけとして、日本が大きな変化を遂げたことから、その名は長く語り継がれることになりました。

一方では、崇拝を受けるようにもなったことから、過剰に装飾されがちにもなり、実像が見えにくい人物でもあります。

この文章では、そんな聖徳太子の生涯について書いています。

聖徳太子

天皇の子として生まれる

聖徳太子は用明ようめい天皇の第二子として、五七四年に誕生しました。

「聖徳太子」は後世からのおくりなで、当時は「厩戸王うまやどのおう」と呼ばれています。

(この文章においては、よく知られている聖徳太子で表記していきます)

母の穴穂部間人あなほべのはしひと皇女は懐妊中に、宮中をめぐり歩いていたのですが、やがて厩戸(馬小屋)の側で産気づきました。

そして苦しみもなく、すぐに子を生んでいます。

この出生の話にちなんで、厩戸王と名づけられたのでした。

天才少年だった

『日本書紀』では聖徳太子について、次のように書かれています。

「生まれるとすぐに話すことができるようになり、聡明だった。

成長すると一度に十人の訴えを聞いて、誤らずに判断を下すことができた。

そして未来の出来事を悟ることができた」

生まれながらにして優れた知性の持ち主で、かつ神秘的なところも備えていた、天才少年だった、とされているのです。

過剰に語られていそうな印象は受けますが、そういった伝説が生まれるほどに、優れた人物だったようです。

この挿話に基づき、聖徳太子は「豊聡耳とよさとみみ皇子」という名でも呼ばれました。

「聡」という字は「耳がよく聞こえる」という意味を持っています。

蘇我氏と深い血縁関係にあった

この当時、朝廷では蘇我そが氏と物部もののべ氏の二つの氏族が権力を争っていたのですが、聖徳太子は蘇我氏との関係が深い人物でした。

父である用明天皇の母、つまり太子の祖母は蘇我氏の出身で、母の穴穂部間人皇女もまた同様です。

当時の天皇家はいくつかの系統に別れており、それぞれが有力な氏族と結びつくことで地位を得たり、失ったりしていました。

このため、聖徳太子は生まれた時から、蘇我氏から強く影響を受ける立場にあったのでした。

蘇我氏と物部氏の抗争

蘇我氏の当主は馬子うまこで、同等の地位にある物部守屋もりやと対立していました。

馬子はかねてより仏教を信仰し、寺院を建立していたのですが、やがて疫病が流行し、数多くの民衆が死亡する事態が発生します。

すると守屋は「異国の宗教である仏教などを受け入れるから、このような災いが発生したのだ」と主張し、それを理由にして仏殿や仏像を焼き払い、あるいは川に捨ててしまいます。

当時は仏教を受容するか、しないかで朝廷内の意見が割れていたのですが、推進派の馬子と、反対派の守屋との間で、暴力を伴う抗争が発生していたのでした。

用明天皇の病

こうした状況下で、用明天皇は病に倒れます。

すると天皇は「仏教に頼りたい」という内容のみことのりを出すのですが、守屋は「どうしてこの国の神に背き、他国の神を敬うのですか」と言って反対しました。

一方で馬子は「詔のままにお助けするべきだ」と述べ、天皇の弟に働きかけ、宮中に参内させ、その意向に沿おうとします。

そして群臣にも働きかけ、守屋を捕らえようとしますが、危険を察知した守屋は引き下がり、兵を集めて警戒態勢をしきました。

これに応じ、馬子の側も武装兵が身辺を守るようになり、天皇の死の間際となって、両者の対立は決定的なものとなります。

【次のページに続く▼】