冠位十二階を定める
六〇三年になると、聖徳太子と馬子は共同して「冠位十二階」の制度を定めました。
これは朝廷に仕える臣下に十二の等級を定め、与えるものです。
冠位には大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智がありました。
これらは儒教の徳目から名称が取られています。
この制度は臣下たちを序列化し、官僚機構の中に組み込むものだったと言えます。
それまでの朝廷は、各氏族の有力者たちが地位を与えられて仕えており、世襲制だったのですが、冠位はこれとは違い、個人に与えられるものでした。
この変革によって、氏族の枠にとらわれない人材登用が可能となり、上下関係をはっきりさせることで、朝廷内の秩序を安定させる効果がありました。
またこれ以前に、日本は中国の王朝・隋から政治制度が整っていないことを批判されたのですが、国際的な基準に合わせるために、制度改革を行ったという面もありました。
たとえば、官位の序列がはっきりしていないと、他国に使者としておもむいた場合に、相手はどの程度の礼遇をすればよいのかがわからず、対応がしづらくなります。
このような問題点を解消する意図も、この制度には込められていたのでした。
冠位十二階は六四八年に、新たに冠位十三階が制定されるまで、実施されています。
十七条憲法を制定する
ついで六〇四年になると、聖徳太子は「十七条憲法」を制定しました。
一条の「和をもって貴しとなす」が有名ですが、現代の憲法とは異なり、朝廷に仕える者たちに対し、心構えを教えさとすものとなっています。
和をもって貴しとなす、という言葉は儒教の経典である『論語』から引用されています。
また、二条には「篤く三宝を敬え」とありますが、三宝は「仏・法・僧」のことを指しており、仏教を大事にするようにと説いています。
この他に神道や道教の影響も見られ、様々な思想や宗教が混交した内容になっています。
そして天皇の詔に慎んで従い、信義を重視し、独断を避けることが求められており、これまでのように氏族間で争うことなく、朝廷に忠義を尽くすようにと働きかける目的があったのでした。
先の冠位十二階と合わせ、氏族を官僚化していくことで、朝廷による中央集権体制の確立を目指したことがうかがえます。
隋との外交を行う
六〇七年になると、朝廷は小野妹子を隋に派遣し、皇帝の煬帝に国書を送ります。
これには「日出るところの天子、書を日の没するところの天子に致す」と書かれており、日本と隋とが対等であるように表現しました。
隋の煬帝はこれを見て立腹し、「無礼な書は今後、自分には見せないように」と指示を出しています。
中華思想の世界観では、天子(皇帝)は世界でただ一人ですので、日本の国主が天子を名のり、対等であるようにふるまったことに対し、怒りを表明したのでした。
へりくだりはするものの、冊封は受けず
その後の外交において、聖徳太子や馬子らは、国書でへりくだった表現を使いはするものの、従属する姿勢は示さず、推古天皇が隋から王位を受けることはありませんでした。
このころ、隋は高句麗の討伐を計画しており、その背後に位置する日本とは友好関係を保っておきたいと考えていたことから、さほど強い態度には出てこなかったのだと考えられています。
この結果として、日本は大国である隋に対し、姿勢を低くはするものの、冊封体制の中には入らず、友好国に位置づけられるにとどまりました。
古代においては、卑弥呼や倭の五王などが中国の王朝に従属していましたが、この時期から、その状態を脱し、独立を保とうとする姿勢が現れてきます。
なお隋はその後、三十万の大軍を動員して高句麗に攻め込みますが、討伐に失敗しました。
そして煬帝の失政もあいまって滅亡し、唐に取って代わられています。
こうした歴史の流れによって、この時期の日中関係は、緊張をはらみながらも、距離を置く状態で推移しました。
【次のページに続く▼】


