馬子が崇峻天皇を殺害する
馬子は一計を案じ、東国から貢物が届けられたと述べ、自分の意をくんだ東漢直駒を宮殿に使わしました。
そして天皇に謁見すると、東漢直駒はその場で天皇を殺害します。
こうして崇峻天皇は日本の歴史上、ただひとり、臣下によって殺害されたことが、史書に明記された存在になりました。
(暗殺を疑われている天皇は他にもいるのですが、確たる証拠はありません)
東漢直駒はその後、天皇の女御で、馬子の娘でもある河上娘をさらって妻にしたのですが、それを恨んだ馬子に殺害されます。
これは馬子による口封じではないかと推測されています。
この時代においては、権力争いのために天皇さえ殺されることがあり、その権威が安定していなかったことがうかがえます。
推古天皇が即位し、皇太子となる
こうして再び政変が発生しましたが、まもなく用明天皇の后だった炊屋姫が、群臣たちに推戴されて即位し、推古天皇になりました。
推古天皇は、日本における初の女帝です。
また、厩戸王が皇太子に立てられ、これが元で、後に聖徳太子と呼ばれることになりました。
このようにして、天皇が殺害されるという大事件が発生したにも関わらず、さほどの混乱もなく、政権の移行が進んでいます。
このことから、天皇の暗殺は馬子の一存ではなく、あらかじめ他の皇族や群臣たちにはかり、同意を得た上で実行されたものなのだと推測できます。
日本書紀には馬子一人が計画し、実行したかのように書かれていますが、皇族や他の氏族が天皇殺害に関わっていたとなると、大きな汚点になりますので、それを記さず、馬子にすべての責任を押しつけたのかもしれません。
蘇我氏は、日本書紀が編纂された頃には滅亡していましたので、馬子は押しつけられるのに適した存在となっていたのです。
仏教と儒教を外国の教師に学ぶ
このころ、聖徳太子は高句麗の僧・慧慈に仏教を習い、百済の学者である覚哿に儒教を習いました。
つまりは外国からやってきた教師について、外来の宗教や政治思想を学んだことになります。
高句麗は朝鮮半島の北部に、百済は南西部にあった国で、いずれも日本との国交を持っており、日本に渡来する人たちが数多くいたようです。
そして六〇二年には百済の学者である観勒が来日し、天文や歴法、道教などを伝えています。
これがきっかけとなり、日本でも暦が用いられるようになりました。
保守派の物部氏が滅亡したことで、日本の国際化が進展していったのだと言えます。
そして聖徳太子は、流入してくる知識を自ら積極的に学び、書生たちにも学ばせ、日本に取り入れる事業を推進していきました。
新羅の討伐が計画される
このころ、朝鮮半島の南部にある任那という地域に、日本は権益を持っていました。
しかし、東に隣接する新羅がこの地を狙い、たびたび攻撃をしかけてきます。
このため、日本は六〇〇年に出兵し、新羅に打撃を与え、貢物を納入することを約束させました。
ですが新羅はその後もたびたび、任那に攻撃をしかけてきます。
この事態を受け、六〇二年に聖徳太子の弟である来目皇子が将軍となり、二万五千の大軍を動員し、新羅を討伐することになります。
そして来目皇子は筑紫(福岡)にまでおもむきますが、やがて病に倒れ、死去してしまいました。
この時、聖徳太子は馬子を呼び、来目皇子が死去したことを告げ、「来目皇子は大事に臨んだが、やり遂げることができなかった。とても悲しいことだ」と語っています。
この影響で遠征は中止となりましたが、この後も日本はしばらくの間、朝鮮半島への介入を続けています。
一方において、聖徳太子らは九州の各地に部民を配置し、国内の支配力を高める施策も行いました。
このころはまだ、朝廷の地方への影響力は限られていましたが、大軍を集めて示威を行い、その上で土地の実効支配も進めることで、九州の統治を安定させようとする狙いもあったようです。
【次のページに続く▼】