聖徳太子(厩戸王) 古代日本の発展に尽くした英才の生涯

仏教の普及が進む

先に四天王寺などが建てられましたが、その後、さらに仏教の普及が進んでいきました。

六〇七年に、聖徳太子と推古天皇は法隆寺を建立します。

これは用明天皇が自らの病を治すために建立を願ったものの、果たせなかったので、両者が遺志をついで建てたものだとされています。

また、天皇の命によって仏像が建立され、元興寺の金堂に据え置かれます。

この時、仏像を制作した鞍作鳥くらつくり の とりという仏師が、一族が仏教の興隆に貢献したことを称賛され、大仁の位と水田を褒美として与えられました。

このようにして冠位十二階が活用され、功績のあった者に位を与え、朝臣として取り立てたのです。

そして同時に、仏教を大事にする者を朝廷は高く評価することを、内外に示したのでした。

この影響で、各氏族もそれぞれに寺を建てるようになっていきます。

聖徳太子が天皇に仏教の講義をする

またこのころ、聖徳太子は天皇に勝鬘経しょうまんぎょうの講義を求められ、三日をかけて実施しています。

勝鬘経は古代インドの王女で、仏教の在家信者である勝鬘夫人が説いた経典でした。

戒律を守ることや、衆生に怒りを覚えたり、害したりしないこと、困窮している者がいれば、財産の蓄えを用いて救済することなどが誓われています。

王族ならではの教えが盛り込まれていましたので、女帝である推古天皇にとっては、施政の方針を考える上で、参考になったことでしょう。

また、聖徳太子は法華経ほけきょうを岡本宮に説いたとも記されており、皇族に仏教を教授する立場にあったのでした。

これらの功績によって、播磨はりまの水田百町が太子に与えられ、その収入は法隆寺に収められました。

神道を敬うように詔が出される

一方で六〇七年には、古来よりの神々を敬うことを怠らないように、との詔が、推古天皇から出されます。

信仰の対象が仏教に偏りすぎないよう、一定の抑制をきかせる意図があったものと考えられます。

天皇家は日本を作った神々の子孫だとされており、それが地位の正当性を保証するものになっていました。

ですので、仏教ばかりが崇拝され、神道がおろそかになりすぎるとよろしくない、という配慮がなされたようです。

このようにして、外来の宗教を大きく受け入れたことで、日本人の宗教観が複雑化していくことになりました。

やがてこれは、神仏習合という形で、統合されていくことになります。

ため池や街道が整備される

その後、六一三年になると、掖上わきがみ池、畝傍うねび池、和珥わに池が作られました。

これらは農業用水を確保するための溜め池だったと考えられています。

また、難波から京に至る大道が開かれており、インフラの整備が進んでいたことがうかがえます。

この時期は内乱がなく、外征も行われず、政情が安定していましたので、内政を充実させるために、各種政策が実施されていたのでした。

聖徳太子、推古天皇、蘇我馬子が政治の中心にいたわけですが、三者の関係が良好で、方針も一致していたことが、このような成果をもたらしたのだと考えられます。

飢えた者に施しをする

日本書紀には、この年に不思議な出来事があったと記されています。

冬のある日、聖徳太子は片岡に遊行します。

するとその途中で、道ばたに伏し、飢えて苦しんでいる者の姿をみかけました。

聖徳太子はその者に姓名をたずねてみましたが、答えはありませんでした。

聖徳太子は彼に食べ物と飲み物を与え、また着ていたものを脱ぎ、体の上にかけてやります。

遊行から戻り、しばらくしてから、聖徳太子は使いを送り、飢えていた者の様子を確かめさせました。

すると、すでに亡くなっていた、と報告されます。

聖徳太子はこれを聞くと悲しみ、その場所に埋葬し、墓を建ててやるようにと命じました。

それからまたしばらくすると、聖徳太子は近習の者を呼び「先に道で飢えていた者は、ただの人ではない。必ず真人しんじんであろう」と述べ、使いを送り、また様子を確かめさせます。

真人とは道教において、道を極めた人のことを指し、仙人とも呼ばれる存在のことです。

使いの者が戻ってくると「墓を訪ねてみると、固く埋めたところに変化はなかったのに、墓の中には遺体がなく、着物が棺の上にたたんで置いてありました」と報告しました。

聖徳太子はまた使者を送り、その着物を持ち帰らせ、身につけます。

当時の人々は、この事態を不思議がり「聖人が聖人を知るとは、このようなことを言うのであろう」といい、ますます聖徳太子を尊重するようになりました。

これが実際にあったことなのかは不明ですが、古代において、このような伝承が語られていたのは、おそらく事実なのでしょう。

これまで述べてきた通り、聖徳太子は仏教や儒教といった、外来の宗教・思想を習得し、日本に根づかせる活動を行った人でした。

そして道教もまた、日本に伝来して影響を及ぼしているのですが、この挿話によって、聖徳太子は道教をも修めていた人だったという認識を持たれていたことがわかります。

聖徳太子は新時代の幕開けを象徴する人物として位置づけられ、それゆえに後世の人々から、あらゆる道を極めた聖人として、崇拝されるようになったのでした。

【次のページに続く▼】

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